沿線点描

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旧7000形車両復元撮影会を振返る

復元撮影会「7000形に見る北総線のあゆみ」

7. 都心直通列車の運転開始(1991年)

撮影内容
普通川崎行

△普通川崎行

普通千葉ニュータウン中央行

△普通千葉ニュータウン中央行

急行千葉ニュータウン中央行

△急行千葉ニュータウン中央行


設定と背景

北総開発鉄道と沿線地域にとって悲願だったⅡ期線が1991年3月に開業し,都心直通運転が始まった。直通開始当初の運転系統は京急川崎・千葉ニュータウン中央間を原則としていて,京成線,都営浅草線,京浜急行線に乗入れて1都2県を走った。それまで松戸への暫定乗入れで運用されていた7000形は中間車2両を増やして8両編成となり,ようやく本領を発揮して東京都心に乗入れるようになった。これらのカットは,都心直通運転が始まった直後の1991年頃を想定したものである。

京急川崎・千葉ニュータウン中央間を走る北総線系統の列車は,京浜急行線内では急行列車として運行された。それが7000形にとって初の優等列車だった。都心直通運転にあわせて新調された方向幕には,こうした優等列車の種別のほか,新たに乗入れる京成線,都営浅草線,京浜急行線の行先が追加されていた。仮称のままだったニュータウン中央が千葉ニュータウン中央に変更されたのもこの時だった。また,この時のダイヤ改正から北総所属車両で運転される列車の列車番号は,末尾の記号が「H」から「N」に変わった。都心直通列車に関連する車両運用には車両の運行行路を表す番号である運行番号が設定され,当初は01Nから11Nまでが与えられた。長らく使用停止となっていた運番表示器は,ようやく運行番号を表示する用途で使われるようになった。

ちなみに今回モデルとした列車は,平日第1104N京急川崎行――千葉ニュータウン中央11:53発・京急川崎13:19着――,平日第1301N千葉ニュータウン中央行――京急川崎13:01発・千葉ニュータウン中央14:26着――,平日第1211N千葉ニュータウン中央行――京急川崎12:41発・千葉ニュータウン中央14:07着――である。第1104Nと第1301Nは北総線内の普通,第1211Nは京浜急行線内の急行を再現している。

8. 新たな区間列車の誕生(1991年)

撮影内容
普通西白井行

△普通西白井行

普通高砂行

△普通高砂行


設定と背景

都心直通運転開始前の北総線の区間列車はすべて北初富発着だった。車庫所在駅である西白井や夜間滞泊のあった新鎌ヶ谷信号所への入出庫に関する列車はすべて回送運転で,西白井止まりの営業列車は設定されていなかった。北初富止まりの区間列車は都心直通運転の開始とともに廃止されたが,一方で西白井や新鎌ヶ谷,京成高砂止まりの区間列車が設定されるようになった。これらのカットは,都心直通運転が始まった直後の1991年頃に設定されていた区間列車を想定したものである。

モデルとした列車は,平日第809N西白井行――京急川崎8:44発・西白井10:05着――,平日第2100N京成高砂行――千葉ニュータウン中央21:32発・京成高砂22:04着――である。前者は朝方の運用を終えて西白井入庫となる列車で,後者は平日夜に設定されていた京成高砂発着の区間列車だった。

9. 松戸直通運転の廃止(1992年)

撮影内容
普通松戸行

△普通松戸行

普通千葉ニュータウン中央行

△普通千葉ニュータウン中央行


設定と背景

新京成線松戸までの暫定乗入れは,都心直通運転の開始とともに役目を終えるはずだった。しかし新鎌ヶ谷総合駅の整備計画に遅れが生じたことで,同駅で予定していた新京成線との接続ができなくなり,暫定乗入れを当面継続せざるを得なくなった。これらのカットは,都心直通運転の開始後にも継続していた新京成線直通列車を想定したものである。

都心直通運転の開始によって,東京都心へのメインルートは都心直結のⅡ期線ルートとなり,松戸経由の新京成線直通列車はサブルートとなった。新京成線直通列車も北総所属車両使用列車における列車番号末尾の記号が「N」に都心直通列車と同じく変更されたが,新京成線直通列車の列車番号の付番体系は引続き新京成線の体系に則ったことから,運番表示器は従来通り使用せずに末尾の「N」だけを表示して運転された。なお,編成番号札は都心直通運転の開始に伴って撤去されたため,都心直通運転の開始前とは異なる表情を見せている。

新鎌ヶ谷総合駅計画は2期線の開業直後に進展し,1992年7月に新京成線新鎌ヶ谷駅が暫定開業した。これをもって新京成線への直通運転は廃止され,北初富・新鎌ヶ谷間の暫定乗入線も役目を終えた。

10. 急行運転の開始(1993年)

撮影内容
急行川崎行

△急行川崎行

設定と背景

東京都心と千葉ニュータウンのアクセスは,都心直通運転の開始によって大きく改善した。日本橋と千葉ニュータウン中央の間は55分で結ばれ,それまでの松戸経由に比べて10分以上短縮された。ところが,北総線の利用者数は都心直通運転開始前の予想を大きく下回り,需要喚起が喫緊の課題となっていた上に,さらなる速達化を求める沿線地域の声に押される格好で,1993年4月のダイヤ改正から北総線内初の優等列車・急行が設定された。急行は朝7時台の上り列車2本を対象に設定され,新鎌ヶ谷から矢切までの間を通過運転することで日本橋と千葉ニュータウン中央の間を5分短縮し,50分で結んだ。このカットは,北総線内に設定された当初の急行列車を想定したものである。

モデルとした列車は,平日第770N急行京急川崎行――千葉ニュータウン中央7:33発・京急川崎8:55着――である。1993年4月の急行運転開始時に設定された2本の急行列車のうちの1本で,北総所属車両で運転されるのはこの第770Nだけだった。ちなみに,運行開始初日に最初の急行列車として走ったのは7004編成だったという。

11. 羽田駅暫定開業と北総所属車両の新逗子乗入れ開始(1993年)

撮影内容
急行新逗子行

△急行新逗子行

急行新町行

△急行新町行

普通西馬込行

△普通西馬込行

普通新鎌ヶ谷行

△普通新鎌ヶ谷行


設定と背景

1993年4月のダイヤ改正で北総所属車両の運用範囲はさらに拡大し,京浜急行線新逗子まで乗入れるようになった。北総所属車両による新逗子乗入れは,平日朝に京急川崎から新逗子までの急行列車として設定されたもので,運用の間合いで神奈川新町に入庫する場面もあった。

また,この時のダイヤ改正から京急空港線羽田駅までの直通運転が始まった。日中の運転系統は京急川崎発着から羽田発着に見直されたが,当時の羽田駅は暫定開業であり,入線できるのは6両編成以下に限られていたため,8両編成の北総所属車両は入線できなかった。北総所属車両は日中の用途を失って持て余された状態となり,西馬込・泉岳寺間の区間列車として使用された以外は新鎌ヶ谷や西白井に留置されるほかなかった。また,こうした変化にあわせて新たに必要となった行先表示が車両に追加されていったのもこの時期で,7000形にも矢切,品川,羽田の3種類の行先表示が追加されたが,追加当初にこれらの行先表示が使われる機会はほとんどなかった。

モデルとした列車は,平日第970N急行新逗子行――京急川崎9:04発・新逗子10:00着――,平日第1071N急行神奈川新町行――新逗子10:04発・神奈川新町10:35着――,平日第666N普通西馬込行――千葉ニュータウン中央06:47発・西馬込08:05着――,平日第966N普通新鎌ヶ谷行――千葉ニュータウン中央09:42発・新鎌ヶ谷09:55着――である。平日第970Nと平日第1071Nはその列車番号から分かる通り,北総線内に設定された上り急行列車第770Nから流れる一連の運用行路にあり,平日71N運行は当時の北総所属車両における華の運用行路だった。また,第966Nは新鎌ヶ谷到着後そのまま留置されて夕方の第1667Nに流れる運用で,当時の北総所属車両が日中ほとんど走行していなかった実態をよく表している。

12. 印西牧の原延伸と北総線の速達化(1995年)

撮影内容
急行印西牧の原行

△急行印西牧の原行

普通印西牧の原行

△普通印西牧の原行

普通羽田行

△普通羽田行


設定と背景

公団鉄道のⅡ期線として延伸整備の行われてきた千葉ニュータウン中央・印旛松虫(現・印旛日本医大)間のうち,西側の千葉ニュータウン中央・印西牧の原間が1995年4月に部分開通した。開通にあわせて導入された「C-Flyer」こと9100形は,鳥のオナガをイメージした独創的な先頭形状と一部の座席をクロスシートとした車内で北総線における新たなイメージリーダーとなるが,「ゲンコツ電車」こと7000形も引続き北総線の顔であり続けた。新たに追加された印西牧の原の行先表示には,知名度の低い新駅における対策として上部に「千葉ニュータウン」の文言が入れられた。また,外国人利用者への対策として始まった行先表示の英字表記追加も反映され,これまでの行先表示とは印象の異なるものとなった。

暫定開業だった京急空港線羽田駅はその前年1994年12月に8両編成への対応を終え,この時のダイヤ改正から北総所属車両は羽田駅への乗入れを本格的に開始した。日中において羽田・印西牧の原間の運転系統が確立され,北総所属車両は再び日中の運用機会を得た。また,平日朝のピーク時間帯に運行していた上り急行列車はさらなる利用者の増加をうけて増発されるとともに,平日夜間の下り列車としても設定されるようになった。速達性の向上は急行列車に留まらず,新鎌ヶ谷・印西牧の原間の最高速度が105km/hに引き上げられて普通列車も速達化された。

なお,印西牧の原延伸によって7000形の行先表示数は表示器の制御上限である20コマに達した。このため1995年度から順次7300形と同じ上限40コマの表示器に更新されていった。英字なしの行先表示は印西牧の原延伸からまもなくして見納めとなり,表示器の更新以降は英字入りの行先表示を掲げた表情に変わっていった。

13. 宗吾工場での改造と検査

撮影内容
試運転

△試運転

設定と背景

開業当初の北総線に設けられた車庫は,西白井駅に隣接する小さな西白井車両基地しかなかった。西白井車両基地は本来予定されていた小室車庫の完成まで暫定的に使用する施設であり,その設備は必要最低限の規模に留められていた。それでも7000形に対する定期検査は,重要部検査や全般検査といった分解検査を含めて当初は西白井で実施され,機器整備など自社では困難な一部の業務を外部委託する程度であった。ところが1986年の定期検査以降は京成電鉄の宗吾工場に全面的な委託を行う方針に転換し,7000形の定期検査や大規模な改造は宗吾工場で実施されるようになった。

1990年代の半ばには,都心直通運転の開始時に改造が見送られていた先頭車の電動車化や,用途を失った新京成線用列車無線の撤去などが行われるなど,7000形の改造が宗吾工場で相次いで施工された。こうした大規模な改造や定期検査に伴う試運転列車でひときわ目を引いたのが,貫通扉に差し込こまれた「試」の方向板だった。このカットは,そんな宗吾工場での改造や検査を終えて試運転に臨む7000形の姿を想定したものである。