沿線点描

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旧7000形車両復元撮影会を振返る

復元撮影会「7000形に見る北総線のあゆみ」

1. 習熟運転の開始(1979年2月)

撮影内容
習熟運転列車

△習熟運転列車

設定と背景

関係者の期待を背負った7000形が北総線の線路上に姿を現したのは,1978年11月のことだった。7000形は各車両メーカの工場から国鉄常磐線・北柏駅まで甲種輸送され,そして北柏駅からは西白井車両基地へ陸送で搬入されてきた。当初の運番表示器は白地の字幕を使用していたが,1979年初に始まる試運転の前後で黒地のものへ変更された。このカットは運番表示を黒地の字幕とした直後,1979年2月頃の習熟運転列車を想定して設定した。

この当時は列車番号に「試」や「回」を使っていて,試運転列車では運番表示に「試」を表示することもあった。行先種別表示器における「試運転」の表示は,行先側の字幕に「試運転」表示が収録されていたため,種別側の字幕は黒一色の基準位置を表示していた。もっとも当時は種別字幕に黒一色の無表示か「普通」しか表示のなかった時代であり,営業開始後は種別側の操作を省略し「普通」表示のまま半ば固定して運用されていた。そのため,営業開始後には「普通・回送」の表示も珍しくなかった。律儀に種別側まで表示を設定している様はこの時期ならではの姿と言えよう。

2. 開通祝賀列車(1979年3月8日)

撮影内容
開通祝賀列車

△開通祝賀列車

設定と背景

千葉ニュータウンの街開きとともに北総線は走り始めた。千葉ニュータウンの足として喫緊に整備する必要のあった北初富・小室間のⅠ期線が開業したのは1979年3月9日のことだった。その前日の8日には開通式が盛大に執り行われたといい,新鎌ヶ谷信号所と小室駅の間で開通祝賀列車が運行された。このカットは,1979年3月8日に運行された新鎌ヶ谷信号所行の開通祝賀列車『祝2列車』を再現したものである。

開通祝賀列車『祝2列車』は,小室駅での出発式でテープカットの後に新鎌ヶ谷信号所まで走ったという。史実では,この列車に使用されたのは7004編成であり,第1編成の7002編成はその大役を逃しているそうだ。直径は900ミリメートルを超える大型のヘッドマークには華やかな花飾りと「祝・北総線開通」の文字が筆文字で大書きされている。晩年に7000形が掲出していたヘッドマークは直径600ミリメートル程度であり,車号すら隠してしまうこのヘッドマークの存在感に驚かされる。当時のヘッドマークは翌1980年8月のローレル賞受賞記念列車に流用されたようだが,その後の行方はわからない。今回,北総線と千葉ニュータウンの歴史に思いを馳せながら,当時の資料をもとに複製品を作成してみた次第である。

3. 開業当初の北総線(1979年)

撮影内容
小室行

△小室行

松戸行

△松戸行


設定と背景

これらのカットは,北総線の開業当初において松戸・小室間で運転されていた営業列車を再現したものである。下り小室行の列車に選んだのは第827H――松戸13:13発・小室13:44着――で,上り松戸行の列車に選んだのはその折返しである第830H――小室13:53発,松戸14:24着――である。運番表示器に表示されているのは列車番号の末尾3文字で,今と異なり列車番号を表示していた開業直後の様子を再現した。

運番表示器の下には編成番号札を下げた。まるで首都圏の国電のような編成番号札は,黎明期の北総線が国鉄マンに支えられていた証左でもある。開業当初の北総線において,専門技術を必要とする運転士や技術系社員は国鉄からの転籍者だった。千葉鉄道管理局と東京北鉄道管理局の両局から熟練した国鉄職員を経験者として採用することで,基礎教育を省略するなど要員養成期間の短縮を図ったのである。したがって車両保守社員も国鉄からの転籍者であり,西白井で定期検査を実施していた黎明期にはユニット単位での編成組替がなされるなど,さながら国電のような車両管理が行われていたという。編成番号札は開業からしばらくして設けられたもので,7002編成から順に「1」から「3」の番号が与えられていた。開業当初の北総線とは,国鉄のエッセンスが息づいた民鉄だったのだ。

4. 北初富止の区間列車(1979年~1980年)

撮影内容
北初富行(方向板)

△北初富行(方向板)

北初富行(方向幕)

△北初富行(方向幕)


設定と背景

開業当初における北総線の運転系統は松戸・小室間を基本としていたが,一部に北初富発着の区間列車が存在した。全列車を松戸発着とするのが理想であっただろうが,新京成線のダイヤ編成上の都合もあって何本かは区間列車として運転せざるを得なかった。これらのカットは,北初富・小室間で運転されていた区間列車を再現したものである。

北初富での折返し運転は当初ほとんど想定されていなかったと思われる。認可申請時などの古い図面において北初富に折返し設備はなく,新京成線との分岐駅に過ぎなかった。北総線の建設工事がほとんど終了した1978年末の時点でも整備されていなかったのだから,おそらく開業直前まで全列車を松戸に直通させる予定だったのだろう。ところが,史実では開業当初から北初富発着の区間列車が設定されている。開業が迫るなか北初富に急きょ折返し設備を整備したのは想像に難くない。それは車両側も同様であったのか,当初の7000形には方向幕に北初富の表示がなく,北初富の方向板を正面の貫通扉に差し込んで運用せざるを得なかった。7000形の方向板は電動方向幕装置(行先種別表示器)の故障時を想定して予備的に用意されたもので,常用される想定ではなかったが,こうした理由から表舞台に駆り出された。

方向板での北初富表示はそう長くは続かず,遅くとも翌1980年の春までには北初富の表示を追加した新しい方向幕が用意された。北初富表示は1年遅れで方向幕での表示となり,方向板はようやく本来意図された予備手段としての立ち位置に収まった。

5. 運番表示器の使用停止(1980年)

撮影内容
小室行

△小室行

松戸行

△松戸行


設定と背景

開業当初こそ列車番号を表示していた7000形の運番表示器だったが,列車番号を表示する役目は早々に終わりを迎えた。そもそも新京成所属車両には運番表示器がなく,7000形だけ折返しの度に変わる列車番号を毎回反映させる作業は手間だったようだ。表示器はまもなく「00H」で固定されるようになり,そして1980年の春には無表示となって,それから都心直通運転が始まるまで長い沈黙の日々を過ごした。これらのカットは,運番表示器を無表示で使用停止とした1980年春頃の営業列車を想定したものである。

6. 公団鉄道の開業(1984年)

撮影内容
千葉ニュータウン中央行

△千葉ニュータウン中央行

設定と背景

千葉ニュータウン中央駅の駅舎の設計を手掛けた設計事務所・交建設計は,かつてウェブサイト上で同駅を「この駅は生まれも育ちも波乱万丈に満ちた人生を送ってきた」と評した。同駅は千葉県営鉄道によって計画され,着工まで漕ぎ着けるも紆余曲折の末に工事中断の憂き目に遭った。そして宅地開発公団へ継承され,公団の改組を経て住宅・都市整備公団の駅としてようやく開業の日を迎えた。1984年3月,北総線の開業から5年の歳月を経た開業だった。

この駅の波乱万丈な生い立ちは,7000形の行先表示にも表れている。本来なら「千葉ニュータウン中央」と記されるべきところ,方向幕に記されているのは「ニュータウン中央」の文字だけだ。その駅名は,かつて千葉ニュータウン中央駅が名乗ろうとしていた駅名である。公団鉄道の小室から千葉ニュータウン中央までの区間は,そこが県営鉄道だった時代から北総線と同時開業を目指していた。北総はこの区間に乗入れる予定だったので,最初から乗入れを見越して7000形に千葉ニュータウン中央の表示をもたせた。それが,7000形の導入された1978年当時にこの駅が名乗っていた駅名「ニュータウン中央」だった。しかし同時開業は叶わず,7000形の「ニュータウン中央」は同駅の開業を待ち続けた。待つこと5年あまり,ようやく開業した「ニュータウン中央」駅は「千葉ニュータウン中央」駅になっていたのである――。このカットは,千葉ニュータウン中央駅が開業して,北総線が乗入れを開始した1984年頃の下り列車を想定したものである。