活動報告

よもやま話

印旛日本医大駅バックヤード見学ツアーを振返る

2022年度に会社創立50周年を迎えた北総鉄道では,周年事業として写真展や記念乗車券の発売等の施策を実施しているところであるが,先般その一環としてツアー形式の見学・体験型イベント(以下,ツアー)を企画・開催している。これまで開催されてきた各ツアーのうち,本稿では5月3日開催「印旛日本医大駅バックヤード見学ツアー」について,その概要と見どころについて紹介するものである。

春の大型連休期間である5月3日に開催された本件ツアーは,周年事業の一環として京成トラベルサービスの運営により展開されている「ディスカバリー北総」上で募集されたものである。募集開始時期としては5月14日開催の「西白井保守用基地見学・鉄道技術員体験イベント」が早かったものの,北総鉄道の企画・催行するツアーとしては本件ツアーが最も早く実施された。

ツアー所感と概説

ツアーの流れ

北総線には特徴的な駅舎をもつ駅が複数あるが,印旛日本医大駅もその一つである。そんな印旛日本医大駅のあらましと駅舎の紹介からツアーは始まった。案内役を務めたのは印旛日本医大駅を含む千葉ニュータウン中央駅務管区の区長と駅営業部門の本社主管課長。北総鉄道の公式ツイッターでは缶バッジを用意する区長の写真が紹介されていたが,まさに手づくりのイベントだという。

ツアーは印旛日本医大駅における非公開施設を含む施設見学及び体験を行うといった内容で,全体の所要時間は約1時間だった。印旛日本医大駅での集合後,2班に分かれ,展望室や駅務室など駅舎内と,終点方に位置する折返し用の引上線をそれぞれ見学・体験することができた。1回あたりの参加者は約10名であり,少人数で時間の許す限り駅の魅力を感じることができるツアーであった。

印旛日本医大駅の施設見学

印旛日本医大駅のあらまし
印旛日本医大駅の外観

△印旛日本医大駅の外観

さて,印旛日本医大駅は北総線の終着駅であり,千葉ニュータウンの最東端に位置している。千葉ニュータウンの事業区域内には6つの鉄道駅があり,そのすべてが北総線の駅である。いずれの駅も千葉ニュータウンの街開きに歩調を合わせて段階的に開設された。1979年3月に西白井と小室で最初の街開きが行われ,西白井から小室までの3駅が開業して以来,鉄道と街は一体となって整備され続けてきた。少しずつ東に鉄道が伸びていき,最東端の印旛日本医大駅まで延伸したのは今から約22年前,2000年7月のことだった。なお,印旛日本医大駅の駅名は開業1年前となる1999年5月,仮駅名だった印旛松虫に代わって制定された。

小室駅から東の鉄道整備は,当時の公団によって行われた。印旛日本医大駅も公団の手によって作られた駅である。かつての公団は千葉ニュータウンの開発者でもあり,鉄道整備を担う鉄道事業者でもあった。元来は千葉ニュータウンの開発も鉄道運営も千葉県による県営事業で計画されていたが,様々な事情によって県と公団が共同で事業を担うことになったためだ。1978年,当時の宅地開発公団は千葉県から小室・印旛松虫間の鉄道事業を継承した。以来,公団は街づくりと鉄道整備を担い続けて,最後の未開業区間だった印西牧の原・印旛日本医大間を2000年7月に開業させたが,2004年7月に鉄道事業を千葉ニュータウン鉄道に承継し,鉄道事業から撤退した。

駅舎の設計思想

公団による鉄道整備には,時に街づくりの当事者としての思いが強く反映されることがあった。印旛日本医大駅もその一つであり,かつて公団は『住宅・都市整備公団史』において開業間近の印旛日本医大駅を次のように紹介している。

新駅は,緑の多い周辺の自然環境に合わせ,緑の中にたたずむイメージでデザインされ,建築材料も自然素材を多く採り入れた瀟洒な橋上駅舎である。(略)今後,地域の文化活動拠点としての役割が大いに期待されている。

(都市基盤整備公団『住宅・都市整備公団史』)

公団にとって駅とは街の一部分であった。街の玄関であるとともに街の拠点であり,量的整備から質的整備に移ろっていった千葉ニュータウンを印象づけるシンボルだった。それゆえ印旛日本医大駅の設計は公団の鉄道事業を担う関連施設・交通部ではなく,街づくりを担う千葉ニュータウン事業本部に委任され,街づくりのコンセプトをもって設計・施工された(なお,鉄道施設としての詳細な設計業務は交建設計に発注されている)。

ドーム天井のある広場
ドーム天井が特徴的なラッチ外コンコース

△ドーム天井が特徴的なラッチ外コンコース

小窓から見える時計台の時計

△小窓から見える時計台の時計


駅の紹介が行われたラッチ外のコンコースには,ドーム型の高い天井をもつ広場がある。先の『住宅・都市整備公団史』には「駅コンサート等の開催が可能なドーム屋根のあるスペース」と紹介されているが,「文化活動拠点」を目指した公団の思いがこの空間にも表れていると言えよう。そしてその空間はドーム型の天井の随所にある小窓から採光が図られるように作られていて,明るい印象を抱かせる。その小窓のひとつからは時計台が覗けるようになっていて,それゆえにコンコースには時計の設置が省略されているという。

時計台(展望室)
印旛日本医大駅の時計台

△印旛日本医大駅の時計台

印旛日本医大駅が特徴的であるもう一つの点といえば,塔のように屹立する時計台の存在だろう。「森の中にたたずむ駅」のシンボルとなる時計台の高さは約34mを誇る(ちなみに当日の配布資料では高さ42mと記載があるが,後述の運転協会誌との相違理由は不明)。北総線で最も高い位置にある東松戸駅は高さ約17m,最も深い位置にある北国分駅は深さ約12mであるから,この時計台の規模がいかに大きいかよく分かる。開業当時の『運転協会誌』には次のように紹介されている。

高さ34mの時計塔は,朝・昼・夕に時の音をもたらし,街のシンボルとして親しまれるでしょう。

(丸山正浩(2000)「都市公団線 印西牧の原~印旛日本医大駅間延伸開業」,『運転協会誌』2000年10月号)

塔の上部には展望室が設けられているが,普段は保安上の理由などから非公開とされている。過去には開業当時の試乗会や社会科見学,小規模な催事にあわせて公開されたこともあるが,滅多に公開されないというのが実情であり,今回のツアーではその展望室からの眺めを楽しめる貴重な体験ができた。

展望室にはエレベータと階段が通じている

△展望室にはエレベータと階段が通じている

企画段階では階段を登る案も検討されたそうな

△企画段階では階段を登る案も検討されたそうな


展望室まで登ってもフロア表示は「3」

△展望室まで登ってもフロア表示は「3」

普段は押すことのできない「・」ボタンを押して展望室へ

△普段は押すことのできない「・」ボタンを押して展望室へ


展望室にはラッチ内に設けられた階段もしくはエレベータで登ることができる。エレベータは普段コンコースとホームを結んでいるものがそのまま展望室に通じていて,普段は選択できない「・」のボタンが展望室のフロアを指している。階段はあくまで非常用のようで過去の公開事例でもいずれもエレベータを利用していたが,今回もエレベータを使っての移動であった。ちなみにエレベータのボタンは「・」だが,展望室のフロア表示は3階扱いである。

展望室の中はコンコースと異なりあまり飾り気がない

△展望室の中はコンコースと異なりあまり飾り気がない

エレベータ横の照明はコンコースと同じで凝っている

△エレベータ横の照明はコンコースと同じで凝っている

起点方(京成高砂方面・西)を望む

△起点方(京成高砂方面・西)を望む

終点方(成田空港方面・東)を望む

△終点方(成田空港方面・東)を望む

起点方で離合するスカイライナー。左奥はNT中央の企業街,右奥は牧の原。

△起点方で離合するスカイライナー。左奥はNT中央の企業街,右奥は牧の原。

引上線で折返し準備中の北総線列車。奥は成田空港。

△引上線で折返し準備中の北総線列車。奥は成田空港。

5月の日中でも男体山・女体山の特徴的な筑波の双耳峰が見える

△5月の日中でも男体山・女体山の特徴的な筑波の双耳峰が見える

起点方には冬の撮影と見られる写真もあり富士山が確認できる

△起点方には冬の撮影と見られる写真もあり富士山が確認できる


凝った意匠のコンコースと異なり,展望室は飾り気のない大人しい内装である。しかし,その内装は眺望を前にすれば全く気にならないだろう。高さ34mを誇る展望室からの眺めは,普段の非公開が惜しいほどに良好だ。開業当時に比べればかなり建築物が増えたものの,それでも周辺に眺望を阻害するような建築物は未だ少ない。東京スカイツリーや筑波山,成田空港を遠くに望みながら,足元に広がる千葉ニュータウンと周辺の自然を楽しむことができた。なお,今回は5月の開催ということもあって冬ほどの空の透明感は望めなかったが,冬期には富士山も容易に望むことができる。

いには野と印旛日本医大駅
足元に広がる「いには野」の街

△足元に広がる「いには野」の街

駅の東側の足元に広がるのは「いには野」の街並みだ。「いには野」は駅の開業に先立つ2000年3月に街開きした約104haの地区で,印旛日本医大駅とともに成長してきた。「いには野」の「いには」とは,今日の「印旛」にあたる古代の地名「印波」の読みに由来しており,「いには野」の全域が当時の印旛村(現在の印西市)に位置する。当地には仮駅名「印旛松虫」の由来となった伝承「松虫姫伝説」など,歴史の長さを感じさせるものも少なくないが,千葉ニュータウン事業の施行に際しては村を挙げて協力的だった地域として記録されている。

印旛地区の造成は小室地区に次いで行われた(1970年)

△印旛地区の造成は小室地区に次いで行われた(1970年)

開業直前の印旛日本医大駅(2000年)

△開業直前の印旛日本医大駅(2000年)


「いには野」におけるニュータウン事業用地の取得は計画初期の1970年までに完了しており,当時の記録には小室地区に次いで造成に着手するなど,開発は最初期に始まっていた。駅ができるはるか前から事業区域内には印旛中学校と消防署(今日の印旛医科器械歴史資料館の建物)が建設され,鉄道の開業を四半世紀以上も待ち続けた地域だった。街が生まれるまで長い年月を必要とした当地だったが,他の千葉ニュータウンの街と同様に鉄道開業時点ではまだ人口が少なく,開業初年度である2000年度における印旛日本医大駅の乗車人員は1日わずか710人(千葉県内乗車人員統計による)だった。空気輸送と揶揄されるなか,社員らは総出で駅の開業を伝えるチラシを印旛村内に配り歩いたといい,その当時のチラシが復刻されてツアー参加者に配布された。また,ツアーで案内役を務めた千葉ニュータウン中央駅務管区の区長は開業当時にも勤務経験があり,そんな当時の逸話を節々で聞くことができた。

駅務室・券売機室

駅舎内の見学は展望室のみならず,駅務室にも入ることができた。展望室と同様に飾り気のない,そしてこじんまりとした駅務室である。印旛日本医大駅ではこの駅務室を中心に,普段は2名体制で駅業務が行われている。

駅の規模としては決して大きくない印旛日本医大駅だが,北総線におけるその役割は重要だ。北総線列車の折返し駅であるとともに,成田空港方に伸びる京成線との運行管理上の接続駅として機能しているし,夜間には北総線列車の滞泊により2組の乗務員が宿泊する。こじんまりとした駅務室ではあるが,乗務員の点呼に必要な設備や,運転取扱いに必要な制御盤,そして運転取扱い資格を有する社員の配置など,見渡せば印旛日本医大駅の担う重要な責務を改めて認識することができよう。

印旛日本医大駅の「関東の駅百選」認定書

△印旛日本医大駅の「関東の駅百選」認定書

駅務室の片隅には,「関東の駅百選」の認定証が飾られていた。鉄道開業125周年となる1997年度に監督官庁である関東運輸局の旗振りで始まった「関東の駅百選」の取組みは北総線の各駅もその選定対象となり,印旛日本医大駅は選定の最終年度となる2000年度に「愛され親しまれ人々の心に残る駅」として選定された。選定理由は「森の中の駅舎をイメージして造られ駅構内無断差化などバリアフリーに配慮された斬新な駅」と,駅のデザイン性のみならずバリアフリーなどの実用面もあわせての評価だった。

券売機室に並ぶMX-8型自動券売機

△券売機室に並ぶMX-8型自動券売機

壁を隔てて京成51号機。窓処に使う青い券紙の横に京成用の券紙が積まれている

△壁を隔てて京成51号機。窓処に使う青い券紙の横に京成用の券紙が積まれている


駅務室に隣接する券売機室には,3台の自動券売機が並ぶ。印旛日本医大駅の開業当初は2台の自動券売機のみを設置していたため,券売機室は2台分の部屋を拡張したような構造である。当初からあった部屋に設置されている2台が北総線用の自動券売機,拡張された部屋に設置されている1台が京成線用の自動券売機だ。

いずれも日本信号製のMX-8型で,外観からは一見して相違が分かりづらいが,内部的にはソフトウェアやユニットの実装状況など,両者には明確な相違が存在している。これらの自動券売機が,運用上,財産上ともに明確な区別をもっていることは,券売機室の隅に置かれた券紙ロールからも確認できる。ツアーでは,このうち北総線用の自動券売機を使用して発券の仕組みが紹介された。さらには係員操作部から実際に発券する体験もでき,その場で発券した試刷券を記念に持ち帰ることができた。

下り出発信号機と高速進行現示
6現示機構の印旛日本医大駅下り出発信号機

△6現示機構の印旛日本医大駅下り出発信号機

引上線への乗車体験は定期列車の折返しを利用して行われた。列車の到着を待つ間に,区長からホームの終点方で下り出発信号機の説明があった。

印旛日本医大駅の下り出発信号機は,成田空港方に進出する下り京成線列車に対して使用される信号機である。印旛日本医大駅より終点方は160km/h運転に対応した区間であり,この下り出発信号機についても160km/h運転対応の信号装置が採用されている。この信号装置は,一般的な最上位現示である進行現示(G現示)よりもさらに上位の現示として「高速進行」現示(GG現示)を出すことができるもので,一般的な多灯形色灯信号機が5灯までの現示機構であるのに対して6灯の現示機構を有している。北総線区間における唯一の6灯式の信号機が,この印旛日本医大駅下り出発信号機なのだ。

高速進行現示は,かつて北越北線の160km/h運転を実現する際に用いられた現示だ。かつては法令によらない特認を必要とする現示だったが,後に技術基準省令に盛り込まれて標準化され,成田スカイアクセスでも同じ現示が採用された。現示の特徴は,高速運転に対応した現示であることから遠方視認性に特段の配慮がなされている点で,高速進行現示で点灯する2つのG灯は3灯分空けて配置されている。6灯式の現示機構における灯配置は,上からY,G,R,G,Y,Gの順であり,同一機構内にG灯が3灯ある。進行現示や減速現示(YG現示)では上から4番目のG灯が点灯し,高速進行現示では上から2番目と6番目のG灯が点灯する。

印旛日本医大駅の起点方を望むと下り線(右側)にアイデントラ地上子が見える

△印旛日本医大駅の起点方を望むと下り線(右側)にアイデントラ地上子が見える

成田スカイアクセスで160km/h運転を行うのは,AE形を使用する列車のみである。ツアーでは,区長から他の列車との区別している仕組みについても簡単に紹介があった。その仕組みとは,印旛日本医大駅の下り場内信号機付近に設けられたアイデントラ(列車選別装置)によってAE形とそれ以外を区別し,AE形の通過時に限って進行現示を高速進行現示にアップさせるというものだ。ちなみに,先行する北越北線の事例ではATS-Pを使用して区別していた。

そして,スカイライナーの通過する3分ほど前になり,下り出発信号機に進行現示が灯った。HTCによる進路制御は列車の到着する約3分前に行われる。このときの現示は進行現示で,まだ高速進行現示は出ていない。しばらく経って列車が駅に接近し,接近放送の鳴動があったころ,現示が高速進行現示にアップする。この瞬間こそが,アイデントラ地上子がAE形を検知して列車選別回路が働いた瞬間である。当日は現示の変化を見ながらの紹介だったため,参加者は感覚的にその仕組みを理解できただろう。

引上線の乗車体験
印旛日本医大駅の終点方にある引上線

△印旛日本医大駅の終点方にある引上線

スカイライナーの通過からしばらくして,下りホームに北総線の折返し列車が到着した。印旛日本医大駅で折返す北総線列車の多くは下りホームに到着し,引上線を介して上りホームに入換する。この入換車両に乗車するのが今回の引上線乗車体験だった。過去の催事でも幾度か設定されている体験内容だが,過去に例のない少人数での体験である点は目新しく,贅沢な体験だったと言えよう。

境界駅である印旛日本医大駅の構内は決して大きくない。かつて県営鉄道は国鉄成田駅までの3期線建設を見越し,印旛松虫駅を2面2線として計画していた。県営鉄道事業を継承した公団は印旛日本医大駅を1面2線で建設したが,その建設時点では成田新高速鉄道(Bルート)は事業化されておらず,県営鉄道計画の面影を残した鉄道施設が完成したにすぎなかった。それでも開業当初は北総線の終点として淡々と列車が折返すだけの駅であったから,1面2線の構内でも運用上の問題はなかった。ちなみに,この当時から線路はホームの終点方にしばらく伸びていたが,印西牧の原駅のように引上線として使われることはなかった(入換信号機もなかった)。

ところが,成田新高速鉄道の事業化によって運用方の検討が具体化すると,印旛日本医大駅を改良する必要が生じた。成田空港方面に通じる唯一の本線であるホームトラックに北総線列車が長時間停車することを避けねばならなかった。さらに,境界駅として異常時の折返し機能も必要だった。かくして整備されたのが,終点方の引上線だった。その引上線は京成線の上下本線に挟まれて2線あり,山側をA線,海側をB線を呼称している。印旛日本医大駅止まりとなる北総線列車の折返しに使用されることが専らだが,臨時で成田空港方面からの京成線列車の折返しに使用されることもある。普段はA線とB線を交互に偏りなく運用している。

少人数のため「特等席」で引上線を楽しむことができた

△少人数のため「特等席」で引上線を楽しむことができた

引上線の終端にある乗務員用トイレ

△引上線の終端にある乗務員用トイレ


ツアーでは,旅客の降車完了後に先頭車両から乗車し,以降は先頭車両内で自由に入換のようすを見ることができた。もっとも1グループには数名しかいないので,いわゆる「特等席」の眺めを存分に味わうことができる。普段経験できない入換信号機の現示で走る車両であり,C-ATS表示器には35km/hの照査を示す表示が確認できた。

引上線での折返し作業は基本的に数分程度しかない。上り京成線列車の通過を待つ必要がなければ,引上線到着後すぐに進路が引かれて指示合図が鳴動することもある。わずかな時間で行われる折返し作業の傍ら,引上線に関する紹介があった。

引上線は印旛日本医大駅の終端にあたり,すなわち北総線の最東端である。車止めの横には停車場区域標の建植も見える。さらに奥にあるのは乗務員用のトイレで,引上線で待機する時間が長時間に及んだ場合を考慮して設けられている。また,隣接する京成線とは軌道構造や電車線設備が異なっていて,車窓から間近にその差異を見ることもできた。

所感と謝辞

かくして印旛日本医大駅を巡るツアーは終わりを告げた。展望室や引上線など内容自体に目新しいものはなく,それぞれ何らかの催事で見学した経験はあったので,事前段階では話題性に乏しいと考えていた。ところが,「印旛日本医大駅」をテーマとして個々の施設を一度に巡ったのは今回が初めてであり,いざ巡ってみると1時間たっぷり見て回ることのできる魅力を秘めた駅であることを実感した。

ツアーとしての充実感は,駅施設のもつ魅力もさることながら,開業当時の勤務経験者として自らの経験を踏まえて様々な紹介を頂いた区長をはじめ,北総鉄道の皆様の尽力あってのものである。直接携わった方はもちろんのことながら,乗務員や駅員の方にも大変よくして頂いた。オール北総の手づくりイベントであったと言えよう。改めてこの場で関係者の皆様に御礼申し上げる。

印旛日本医大駅は駅であるとともに街の一部でもある

△印旛日本医大駅は駅であるとともに街の一部でもある

さて,印旛日本医大駅は決して突飛なだけの鉄道施設ではない。公共施設である鉄道駅として徹底したバリアフリーを実現している実用的な側面もある。設計に際しては駅前広場からホームに至るまで駅構内の段差を徹底的に排除し,自動券売機や自動精算機の設置にも車いす利用者への配慮を欠かさなかったという。そして,この取組みは駅だけを評価して終わるものではなく,駅周辺に開発された「いには野」地区全体がバリアフリーの街として作られている点が画期的だった。「いには野」地区には街中の歩道に点字ブロックが埋め込まれ,勾配も5%以下の低勾配に抑えられている。そんな街の主要施設である駅も当然バリアフリーを実現しているという格好だ。

印旛日本医大駅を含む「いには野」の取組みは,優れた建設技術や創意工夫を行った事業に贈られる全日本建設技術協会『21世紀の「人と建設技術」賞』の受賞をはじめ,教科書への事例掲載など社会的に高く評価された。街づくりと鉄道整備を両面から担ってきた公団だからこそ,駅を街の一部として作ることができたのだろう。駅を鉄道施設の一つとして終わらせるのではなく,街の主要施設の一つと位置づけてトータルデザインすることができた公団の強みがこの印旛日本医大駅に表れている。

鉄道と街を長く待ち続けたこの印旛の地において,今後もそんな印旛日本医大駅が街の一部として受け入れられ,街とともに発展していくことを祈念して本稿の筆を置く。