千葉県営鉄道北千葉線のあゆみ 5:計画の終焉

2016年3月1日公開・ 最終更新

5.千葉ニュータウンからの脱却

5.1.「千葉ニュータウン鉄道」の完成

北総開発鉄道と住宅・都市整備公団に託された「千葉ニュータウン鉄道」の整備は紆余曲折を経ながらも,両者によって着実に進められていった。住宅・都市整備公団関連施設・交通部によって運営されていた同公団鉄道はその運営規模の小ささから,かつて県が北千葉線の第1期運営時に計画していたように,北総開発鉄道に業務の一部を委託していた。公団鉄道区間のこうした運営形態は,1987年に施行された鉄道事業法によって,公団を「第三種鉄道事業」,北総開発鉄道を「第二種鉄道事業」として分類された。これにより,それまで東京1号線に起因する「北総開発鉄道北総線」と東京10号線に起因する「住宅・都市整備公団鉄道千葉ニュータウン線」に分かれていた2つの路線は「北総・公団線」という1つの路線名で纏められた。千葉県と京成電鉄の思惑で生み出された千葉ニュータウンの2本の鉄道路線は,名目上ではあるが,当初の「地域内鉄道」計画のように1本の鉄道路線として表されるようになった。

千葉ニュータウン事業は幾度かの計画縮小を経ながらも開発が進められた。また,北総開発鉄道2期線もバブル期の地価高騰や葛飾区内の建設反対運動,土地収用のいざこざなど様々な問題に直面しながらも建設が進められ,1991年3月に全線開業を迎えた。都心と千葉ニュータウンを直結する通勤新線「地域外鉄道」が整ったことで,千葉ニュータウンの鉄道整備は公団鉄道の千葉ニュータウン中央~印旛松虫間を残すのみとなった。

北総開発鉄道と住宅・都市整備公団は未着手の千葉ニュータウン中央~印旛松虫間を公団第2期区間とし,1992年5月にこの区間の鉄道事業免許,9月には工事施工認可を取得した。千葉県との協定から,公団鉄道は千葉ニュータウンの街開きと同期した開業を求められていたため,公団は千葉ニュータウン中央~印西草深間を「第2期(その1)区間」,印西草深~印旛松虫間を「第2期(その2)区間」と称して*1,前者の優先的な整備を進めた。第2期(その1)区間は1992年11月27日に着工された。仮称で印西草深と呼ばれていたN7駅の正式名称は「印西牧の原」と決定し,1995年4月1日に千葉ニュータウン中央~印西牧の原間が開業した。さらに,残る第2期(その2)区間も整備が進められ,2000年7月22日の印西牧の原~印旛日本医大間開業を以って,千葉ニュータウンの東西を貫く「地域内鉄道」の全線の整備が完了した。

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△印旛松虫駅は印旛日本医大駅として開業した

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△印旛電車基地の北側が印旛車両基地として開設された


当初,北総開発鉄道の車両基地は小室駅の東側に設けられる計画であった。しかし,用地取得を担当する県が当該地の取得に難航したことから,小室車庫計画の凍結を求められ,北千葉線西白井駅の用地を代替地として暫定的に提供されていた*2。こうした経緯で設置された北総開発鉄道の西白井検車区は,路線の延長とともに拡大を続けていたが,手狭であることは否めなかった。そこで,公団第2期(その2)区間の開業と同時に正式な車両基地の整備を行うことになり,北千葉線の車両基地として計画されていた本埜村の印旛電車基地を一部縮小の上で建設し,北総・公団線の車両基地とした。こうして2000年7月の印旛日本医大延伸と同時に「都市基盤整備公団車両基地」が開設された。

千葉ニュータウン事業の一環として計画された通勤新線は,1967年の『調査報告書』から33年の歳月を経て,ようやく「地域内鉄道」「地域外鉄道」の全整備が完了した。

5.2.「県営鉄道北千葉線」の廃止

北千葉線の事業凍結後も県が引き続き免許を維持してきた本八幡~小室間は,1990年に発足した北千葉線検討委員会にて第三セクターによる事業化が検討されてきた。直近の答申である1985年の「運輸政策審議会答申第7号」において,北千葉線は整備対象から除外されていたことから,検討委員会では事業費確保の観点からも次回の答申で整備対象に組み込まれることを目標に活動を続けていった。しかし,2000年1月に運輸政策審議会が答申した「運輸政策審議会答申第18号」において,北千葉線は「沿線の開発状況を見極めつつ,その整備を検討する」と位置づけられ,答申の目標年度である2015年度までに整備する対象から漏れた。

さらに,2000年8月28日には与党三党による「公共事業の抜本的見直しに関する基本合意」における中止勧告を受けたことから,北千葉線検討委員会では今後の事業の存廃について11月13日に申し合わせを行なった。この結果,「県営鉄道事業中止はやむを得ない。本八幡~新鎌ヶ谷間は東京10号線延伸新線として第3セクターによる事業化を促進する。」という結論が出され*3,同月28日に運輸省は北千葉線事業に対する公共事業の中止を決定した。千葉県は翌12月28日付で北千葉線事業の廃止を届出し,千葉県の県営事業としての北千葉線事業は2002年3月末を以って廃止された

こうして,「県営鉄道北千葉線」は1972年の県営事業化からちょうど30年目の年に事業の終わりを迎えた。

5.3.「東京10号延伸新線」の誕生

千葉県が県営鉄道北千葉線事業の廃止を届け出た直後の2001年2月,定例県議会において北千葉線計画を踏襲する新たな路線の整備が決議された。この新たな整備路線は「東京10号延伸新線」と名付けられ,千葉県・鎌ケ谷市・市川市を中心として「東京10号延伸新線促進検討委員会」が発足した。委員会では,第三セクターによる本八幡~新鎌ヶ谷間の事業化を目標として,調査・検討を行うこととされた。

東京10号延伸新線は,北千葉線の事業範囲の一部を踏襲しながらも,その範囲を本八幡~新鎌ヶ谷間に限定し,北千葉線検討委員会において保留扱いとされていた新鎌ヶ谷~小室間は整備の対象外とした。さらに,これまでの北千葉線事業は1973年に作成された免許取得当時の計画をベースとしていたが,東京10号延伸新線では輸送計画を一から検討し直し,需要の掘り起こしを狙った。

5.3.1.経由ルートの検討

促進検討委員会では様々な項目が検討されたが,そのうちの一つに経由ルートの検討があった。そもそも,本八幡~新鎌ヶ谷間の北千葉線の免許ルートは計画当時に3つのルート案から選ばれたものだった。15号答申で柏井を経由することが指定されていたため,ルート選定の焦点は新鎌ヶ谷と柏井をどのように結ぶかにあった。鎌ヶ谷カントリークラブの北を迂回して鎌ケ谷市・市川市の市境を南下する北迂回案,鎌ヶ谷カントリークラブを分断する分断案,そして鎌ヶ谷カントリークラブの南を通る免許案の3案が考案されたが,北迂回案は北総線と並行しすぎること,分断案は地元鎌ケ谷市の産業を守るべきとされたことから,中沢を経由する免許案に確定した*4。しかし,このルート選定が後に北千葉線図面漏洩事件の引き金となるなど,本八幡~新鎌ヶ谷間のルート選定には北千葉線時代から問題が付き纏っていた。

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△北千葉線計画当時から本八幡~新鎌ヶ谷間はルート選定に悩まされていた。
(萩原繁(1974)「千葉県営鉄道を”手中にする”者は誰か」より作成・市町村名および行政界は現在のもの)

一方で,延伸新線のルート選定で争点となったのは本八幡~中沢間であった。千葉ニュータウン住民の通勤輸送を目的としていた北千葉線と異なり,延伸新線は市川市と鎌ケ谷市の沿線住民が利用の主体に見込まれていた。ゆえに,沿線人口の多い地域を経由して利用者を獲得しやすいルートを選定しようという動きが促進検討委員会に起こった。そこで,北千葉線免許ルートより沿線人口の多い曽谷地区を経由する大野案を含めた2案が追加で考案され,免許ルートと合わせた3案でルートが再検討された。既成市街地を経由する大野案は駅勢圏人口の面で他案を凌駕していたが,事業費や用地買収の面で不利とされ,結果的に最短ルートかつ事業費の低廉な北千葉線免許ルートが再び採用された*5。

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△新たに2案を加えて再検討されたが,結局は北千葉線時代のルートを踏襲する方針に決定した。
(『東京10 号線延伸新線の事業化に関する調査報告書』より作成)

5.3.2.整備計画の検討

さらに,促進検討委員会では輸送計画についてもゼロベースで再検討を進めた。北千葉線計画後に開業したJR武蔵野線が沿線地域の都心アクセス線として機能していることから,同線と延伸新線の交点に接続駅を設置し,乗換え需要の掘り起こしが検討された。武蔵野線との接続は,大野案では既存の市川大野駅,免許案では南大野駅の新設によって図られるものとされた*6。

また,車両基地は延伸新線沿線に新設することが検討され,事業中の大柏川第二調整池付近に整備する案が出されたが,必要車両数が少ないことから,新鎌ヶ谷駅の東側に検修機能を持たせた留置線を建設することで補うことが決められた。しかし,同駅周辺は新京成線の連続立体交差事業が進行中で,北千葉線当時の計画通りに建設すると両線の高架橋が支障するため,北千葉線の高架橋を新京成線より高く建設する案(高架案)と,東武野田線の地下にトンネルで建設する案(地下案)の2案で新鎌ヶ谷駅周辺の整備が検討された*7。

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△新鎌ヶ谷駅の設置は地下と高架の2案から検討された
(『東京10 号線延伸新線の事業化に関する調査報告書』より作成)

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△延伸新線で検討された単線化各案の配線略図
(『東京10 号線延伸新線の事業化に関する調査報告書』より作成)

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△【参考】北千葉線計画時代の配線略図
(千葉県による各種線路実測平面図より作成)

このほか,一部区間を単線で建設する案や,編成両数を制限してホームを短くする案など,事業費圧縮を狙って様々な観点から検討が続けられた。これらの検討は2003年度まで続けられ,最終的に南大野駅設置・全線複線・新鎌ヶ谷駅地下設置という整備計画が纏められた。

5.3.3.運行計画の検討

運行計画は北千葉線時代から検討されており,1973年に策定された計画では,本八幡~成田間39.2kmを8両編成でラッシュ時3分間隔,平時10分間隔で運行し,所要時間は急行で35分,各停で44分とされていた*8。保有車両数270両にも及ぶ当時の計画は,あくまで千葉ニュータウンの通勤輸送を前提としたものであった。よって,千葉ニュータウンと切り離された延伸新線の整備にあたっては,新たな計画を練る必要があった。

促進検討委員会では,全線複線・南大野駅設置のケースを前提に運行計画を検討した。検討は2001~2003年度と2008~2011年度の2回行われた。後者の検討当時,都営新宿線にはラッシュ時1時間あたり15本の列車が運行されており,15本全てが延伸新線に直通する計画とした。ただし,当時の北総線のラッシュ時の運行本数を考慮し,新鎌ヶ谷まで直通する列車は8本に限定し,7本は東菅野止まりとした。また,優等列車の運行も可否が検討された。途中南大野のみ停車する快速は全て新鎌ヶ谷まで直通し,ラッシュ時4本の運転を見込んだ。なお,事業費削減のため南大野以東の駅は全て8両編成対応で建設され,10両編成は東菅野までの直通に留められることが計画に明記された。また,延伸新線の所要時分は本八幡~新鎌ヶ谷間の東行各停で11分40秒,東行快速で7分20秒,西行各停で12分,西行快速で7分50秒と見積もられた*9。

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△延伸新線内の優等列車停車駅と運行本数(ラッシュ時1時間あたり)
(『東京10号線延伸新線可能性基礎調査報告書』より作成)

車両は東京都交通局と設計を共通とすることで調達コストを削減するものとされ,最終的に10両編成3本と8両編成5本の計70両が必要車両数として計上された。運賃や人件費は北総を基準に算出されたほか,運営主体(第二種鉄道事業者)を東京都交通局とする上下分離方式の採用も明記された*10。

5.4.促進検討委員会の解散

促進検討委員会は,これまで述べた事業化に関する調査(2001~2003年度)のほか,埼玉高速鉄道線やみなとみらい線といった先進事例から事業スキームに関する調査(2004,2006,2007年度)などを進めてきた。そして,2008年度からは過年度の総まとめとして延伸新線の事業化に関する調査報告書の作成に取り掛かり,課題の抽出と再検討を始めた。また,北千葉線時代に買収を進めていた建設用地は千葉県企業庁が引き続き保有していたが,新鎌ヶ谷駅留置線より東側の区間は延伸新線の事業対象外となるため,対象外の用地の売却が進められた。さらに,用地の取得に際して利用した国庫補助金の返還も2009年度に行われた*11。

しかし,促進検討委員会のまとめた調査報告書の結果は芳しいものではなかった。首都圏鉄道並の運賃で運営すると累積赤字は40年以内に解消しないこと,建設費の高騰によって事業費の拡大が避けられないこと,沿線の宅地化が進行し用地取得が年々困難になっていることなど,あらゆる点で厳しい課題が浮かび上がった。その中には北総線の問題も含まれていた。延伸新線の整備によって北総線の利用者が減少し,同線の2030年度の運賃収入に17億円の悪影響を及ぼすとされた*12。

こうした結果を受けて,2012年3月26日の東京10号延伸新線促進検討委員会第22回委員会で,県は事業から撤退する意向を示した。鎌ケ谷市や市川市は県の意向に理解を示しながらも,地元から期待されてきた事業であること,40年間続いた事業であることを理由に,事業の中止を急に言い出すことはできないと反対した。答申など中止を言い出すタイミングを模索すべきだと主張した鎌ケ谷市・市川市に対し,県総合企画部長の吉田雅一は「どこかでカードを切らないといけない」と述べた*13。県営鉄道計画から40年,終わりの見えない事業に対する決断の時だった。

2013年8月27日。この日,促進検討委員会の第24回委員会が行われた。鎌ケ谷市・市川市ともに29日の市議会で報告するとして,委員会は淡々と進行していった。その後も両市からは用地の処分などの要望が出たのみで,東京10号延伸新線最後の会合はわずか30分という時間で終了した*14。その一週間後の9月3日,促進検討委員会の解散が決定した。2014年3月31日,東京10号延伸新線促進検討委員会は正式に解散した。友納の内陸県営ニュータウン構想から約50年,県政や財界など様々な思惑に揺り動かされてきた「通勤新線」は,その夢の終わりを迎えた。

おわりに

5回にわたって紹介してきた「千葉県営鉄道北千葉線」の歴史物語,如何だっただろうか。

県が北総に出資している裏には北千葉線があり,公団が千葉ニュータウンに参画した裏には北千葉線がある。知らなかった話,知っているつもりだった話…調査を進めていく中で驚かされることも少なくなかったのだから,これを読んでいる諸兄もきっとどこかで同じ思いを抱いたことだろう。諸兄にとって何が印象的であったかは分からないが,放っておけば忘れ去られる一方の北千葉線を郷土史として少しでも記憶に残すことが出来たのであれば幸いである。

北千葉線の用地取得率は7割を超えていた。協定や図面も整備され,ところによっては建設工事も行われていた。あと僅か,されど僅か。実現には届かなかったが,決して机上の構想だけで終わった路線ではない。構造物として残るものもあれば,名を変えて歴史の表舞台に立ち続けるものもある。最初に北千葉線に関する誤認が多いと指摘したが,何よりの誤認は,北千葉線を構想止まりだったと考えてしまうことかもしれない。

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△市川市南大野の用地は今後道路用地となる

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△宅地として分譲される鎌ケ谷市新鎌ケ谷の用地


延伸新線用地を含め,北千葉線の建設用地は処分が始められている。市川市南大野の用地は,隣接する変則交差点の解消を目的に市川市が道路用地として取得した*15。鎌ケ谷市新鎌ケ谷付近の用地は宅地として分譲されており,発展著しい新鎌ヶ谷の街に新たな戸建住宅が生まれようとしている。緑道に生まれ変わった用地もある。以前から自治体に貸し付けられていた公園や駐車場など,北千葉線の用地は少しずつだが街に溶け込みつつある。

繰り返しになるが,ここまで紹介してきた内容は拙著『県営鉄道北千葉線事業総括』を掻い摘んで記したものである。事業計画の詳細や事業者間の協定内容など事細かに記しているが,今回は最低限の内容に留めている。興味があれば読んで頂きたいと思う。

最後に,前出の『事業総括』の執筆の際に貴重な一次資料を提供していただいた千葉県企業庁をはじめとする県機関の皆様に改めてこの場で謝辞を述べ,本連載の〆とさせて頂く。


 

脚注・出典

*1. 『住宅・都市整備公団史』都市基盤整備公団,2000年,p.274.

*2. 黒岩源雄(1979)「北総7000形車両の概説とその検修」,『鉄道ピクトリアル』1979年8月号,p.52,電気車研究会.

*3. 『東京10号線延伸新線の事業化に関する調査報告書』東京10号線延伸新線促進検討委員会,2009年,p.2.

*4. 萩原繁(1974)「千葉県営鉄道を”手中にする”者は誰か」,『財界展望』18(7),p.131,財界展望新社.

*5. 前掲『東京10号線延伸新線の事業化に関する調査報告書』,p.5.

*6. 前掲『東京10号線延伸新線の事業化に関する調査報告書』,p.6.

*7. 前掲『東京10号線延伸新線の事業化に関する調査報告書』,p.28.

*8. 『県営鉄道千葉ニュータウン線本八幡・成田間説明資料』千葉県,1973年.

*9. 『東京10号線延伸新線可能性基礎調査報告書』,p.5-3.

*10. 前掲『東京10号線延伸新線の事業化に関する調査報告書』,p.47.

*11. 『東京10号線延伸新線促進検討委員会 第23回委員会議事録』報告資料.

*12. 『東京10号線延伸新線可能性基礎調査報告書』,p.8-1.

*13. 『東京10号線延伸新線促進検討委員会 第22回委員会議事録』.

*14. 『東京10号線延伸新線促進検討委員会 第24回委員会議事録』.

*15. 市川市議会2014 年9 月定例会 鈴木祐輔道路交通部長の答弁による