千葉県営鉄道北千葉線のあゆみ 1:鉄道新線の検討

2016年1月31日公開・ 最終更新

はじめに

その昔,県営北千葉線と呼ばれる鉄道路線の計画が存在した。昔と言っても戦前や明治大正の頃の話ではなく,直近半世紀の間に生まれ,そして消えていった計画である。

しかしながら,北千葉線の計画について調べようとすると,いずれも断片的であったり,趣味者による推論の展開であったり,いずれも史実としての経緯は完全ではなく,不完全燃焼のような感覚を覚えるのだ。

それだけならまだしも,いくつかの史実が誤認されているのも現状であり,直近半世紀という時間スケールにもかかわらず,北千葉線を取り巻く環境は決して良いものではない。

例えば次のような話があるが,これは史実の誤認である。どこが誤認であるのかは,これから紹介していく内容をよく読んでいけば,自ずと分かることであろう。

千葉ニュータウンの掘割が広いのは,北総線,北千葉線,成田新幹線の3路線が平行して通せるようになっているからである。

 

さて,県営北千葉線計画については,拙著「県営鉄道北千葉線事業総括」をはじめ,いくつかの拙稿で取り上げてきた。千葉県企業庁など多くの機関にご協力頂いたこともあり,計画に関する一次資料から詳細な描写が可能となった。また,拙著もおかげ様で多くの方々の手にわたり,少しでも北千葉線の認知度向上に役立てたのではないかと自負している。

しかし,前述のとおり北千葉線を取り巻く環境は未だ改善されたわけではない。郷土史としての保存と伝承を考え,ここに北千葉線に関する歴史的経緯や計画の概要を紹介していきたいと思う。なお,計画の詳細な内容については,前述の拙著をお読みいただくと,理解の一助になると考えている。

1.千葉ニュータウン鉄道新線の検討

1.1.友納開発県政と千葉ニュータウン構想

戦後の我が国における人口増加と流動は,東京都市圏に爆発的拡大をもたらした。都市の拡大の波は1960年代以降千葉県にも押し寄せ,その勢いは1ヶ月で1万人の人口増加というものであった*1。年間330万平方メートル以上に及ぶ農地が失われ,スプロール(郊外地域において,虫食い状に宅地が広がるなど無秩序に都市開発が進む現象を指す)は県内各地で急速に進んだ。千葉県は,人口増加,住宅不足,そしてスプロールの抑制という課題への対応に追われていた。

こうした高度成長期の千葉県政を担った人物こそが,友納武人である。彼は前任者加納の急逝によって1963年4月に知事の座につき,それから3期12年間にわたって県政の舵を切り続けた。「開発大明神」*2の名の通り,彼の政策路線は地域開発に積極的であった。彼は脆弱な千葉県の体質を鑑み,融資の受け皿として公営企業体である千葉県企業庁を設立したほか,予算の効率的配分を狙った5か年計画「総合開発計画」を4度にわたって策定した*3。県は,中央政府に依存する形で資金を調達し,自らの大規模な政策の実現を目指していたのである。

第二次総合5か年計画の策定途中であった1965年11月,熱海で静養中であった友納は,彼の右腕であり「第二の副知事」とまで言われた県土木部計画課長の宍戸卓也と会談した。そこで切りだされたのが,国鉄総武線と常磐線に挟まれた広大な「処女地帯」に東西に細長い大ニュータウンを県自ら建設し,その真中を鉄道や道路で貫かせようという,内陸ニュータウン構想であった*4。この構想は,翌66年に策定された第二次総合5か年計画に「臨海部および内陸部に約3300ヘクタールの大規模住宅団地の建設」として盛り込まれ*5,県組織の改組が行われた。そして,1966年5月に千葉ニュータウン開発構想が発表され,計画人口約34万人,計画面積約2912.6ヘクタールという大規模な県営ニュータウン計画が定まったのである。

県営の千葉ニュータウン開発構想の実現には,1200億円を超える資金が必要とされた。しかし友納は,政府による宅地開発援助によってその大部分を賄う旨を当時の千葉日報において発言している*6。1964年に成立した佐藤栄作内閣におけるスローガンの一つ「社会開発」は住宅開発や建設政策を示したものであり,千葉県は佐藤栄作内閣の手厚い住宅開発政策に依存することで,県営ニュータウンの開発を進めようとしたのだ*7。

1.2.交通計画の策定

34万人もの人口を抱えるニュータウンには,それに見合った公共交通機関が必要である。しかし,前述のとおり千葉ニュータウンの計画区域は「処女地帯」であり,近隣の鉄道駅までは数キロの距離があった。さらに,そこに至るまでのバス路線は運転回数を見ても貧弱であり,千葉ニュータウンと都心を結ぶ鉄道交通の整備は必要不可欠であった。

千葉県はニュータウン完成後の交通需要人員を約10万人/日と予測し,これに見合った通勤新線を検討した。県はニュータウンと都心を結ぶ通勤新線のルート調査を行い,1967年11月に『千葉ニュータウン鉄道基本計画調査報告書』として発表した。通勤新線のルートは,千葉ニュータウン内部を東西に貫く「地域内鉄道」と,その西端から県内の既存鉄道路線に接続する「地域外鉄道」の2区間に分けて検討された。前者はニュータウンの地区ごとに駅を設け,概ね2~3km間隔で8駅を設置するというものであった。後者は,新京成線元山駅や初富駅などニュータウン西端から近い既存の鉄道駅までを結び,直通運転によって国鉄総武線や常磐線に接続するというものであった。ほかにも,独立した新線によって直接国鉄総武線まで接続するルートも検討されたが,地域外鉄道の基本はニュータウンと既存都市を結ぶことにあり,途中駅は最低限に留められた。

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△1967年当時の千葉ニュータウン通勤新線計画
千葉県(1967)「千葉ニュータウン鉄道基本計画調査報告書」より作成

この時の前提条件であった約10万人/日という交通需要は,当時の京成本線新三河島→日暮里間に匹敵する規模であり,新京成線や東武野田線といった近隣路線における当時の輸送力とは大きくかけ離れていた。また,周辺地域も都市開発が進行し,接続を予定する既存鉄道路線においても将来的な輸送力の逼迫が予測された。ゆえに,独立ルートで西船橋で営団東西線に直接接続する「習志野線」案を県は「最も好しい」と評価*8しながらも,ルートの決定には更なる検討の余地を残した。

いずれにしても,この当時の県は,県営ニュータウンに必要な鉄道新線を1路線として見積もっていた。千葉ニュータウンに通されるべき鉄道路線は,県営による1路線に限られていたのである。

1.3.東京都交通局の接触

1970年代に入ると,県の鉄道事業に対する意気込みは積極性を増した。1970年6月に策定された第三次総合5か年計画では,鉄道網の整備は道路と並んで計画の筆頭に挙げられた。そして,1971年5月には県開発庁都市開発局に都市交通班が設置され,翌6月の定例県議会において友納は次のように所信表明演説した。

鉄道については,房総東西線,総武本線,成田線,東金線等の整備改善に引き続き努力するとともに,県営も含めて内陸通勤鉄道を新設し,通勤,通学の便をはかってまいりたいとおもいます。*9

友納はこのとき初めて県営鉄道の事業化を宣言した。後に北総開発鉄道の社長となる梶本保邦は,友納のこの姿勢を「自分がせっかく大きなニュータウンを計画するのだから,何が何でも自分の手で,鉄道をつけた」*10かったのだと振り返っている。

人口34万人の県営ニュータウンに県営鉄道を通すという,友納の「我田引鉄」に反応し,1969年頃,東京都より一つの申し出が届いた。後の県議会において,この申し出の経緯を友納は次のように語っている。

まず第一の,都営十号線と県営地下鉄との接続についての問題でございますが,この問題につきましては約三年ほど前から東京都交通局のほうから千葉県の企画部に対しまして,地下鉄十号線を千葉県の計画中の北千葉ニュータウンまで延伸をしたい,ついてはこの延伸について都と県が分担をして早急に建設をするように進めたいので協議をしたいという申し出があったわけでございます。

そこで,都側の事情を聞きますと,東京都内のいろいろな状況が住居環境にふさわしくなくなる傾向にあるために,東京都で働く都民が千葉県地先といますかに,居住をする者が年とともにふえてきておる,特に北千葉ニュータウンが新設をされると非常に多くの東京に働く者がこのニュータウンに結果的には相当部分居住するようになると思われるので,どうしてもこの都の地下鉄が通勤輸送を目的にして建設されたものであるので、千葉県と協同してひとつこれを延伸をしたいということが理由のようでございます。

この際,特にこの人口三十四万の千葉北部ニュータウンはこの通勤鉄道の経営上においても,乗客の獲得その他においても非常に貴重なものであるので,ぜひ建設の暁には相互乗り入れといいますか,そういうような形で,双方に運賃の分収ができるようにしてほしいという申し入れがございました。*11

県の検討していた通勤新線のルートは,いずれも様々な問題点を抱えていた。こうした状況下で申し入れられた東京都からの直通運転計画は,県にとって渡りに船であった。県と都の利害は一致し,県の通勤新線計画は都営十号線の千葉ニュータウン延伸という形で検討が進められることになった。


 

人口増加と住宅不足への対応として始まった県営のニュータウン計画は,都心とニュータウンを結ぶ県営鉄道の検討に至った。

東京都の申し入れによって,県と都は手を組み,ニュータウン通勤新線の実現に向けて努力することになる。しかし,これを良く思わない存在があった。様々な思惑に左右されながら,県営鉄道新線は15号答申を迎える――

 

脚注・出典

*1. 国勢調査等による

*2. 「千葉の歴史検証シリーズ16 五千万円念書事件4」『稲毛新聞』2003 年12 月付.

*3. 宮崎隆次(2010)「高度経済期の自治体と計画 友納県政期(一九六三年四月~一九七五年四月)の千葉県の場合」,『千葉大学法学論集』第25 巻第1 号,p.10,千葉大学.

*4. 友納武人(1984)『続疾風怒濤』千葉日報社,p60-61.

*5. 『千葉県第二次総合五か年計画基本方針(案)』千葉県総合企画室,1966 年1 月,p.45.

*6. 「印西中心に内陸ニュータウン」『千葉日報』1966年5月10日付.

*7. 前掲「高度経済期の自治体と計画 友納県政期(一九六三年四月~一九七五年四月)の千葉県の場合」.

*8. 『千葉ニュータウン鉄道基本計画調査報告書』千葉県,1967 年11 月,p.47。

*9. 『昭和四十六年六月招集 千葉県定例県議会会議録』第一号,p.57.

*10. 梶本保邦(1981)「ニュータウン線としての北総開発鉄道の実態について〔上〕」,『汎交通』80(10),p.2,日本交通協会.

*11. 『昭和四十七年六月招集 千葉県定例県議会会議録』第五号,p.469-470.