2016年2月19日公開・ 最終更新
4.凍結から復活へ
4.1.北千葉線事業の凍結
都心アクセス鉄道と小室以西のニュータウン鉄道の整備を北総開発鉄道,小室以東のニュータウン鉄道の整備を宅地開発公団が担えば,千葉県が県営で鉄道を整備する必要性はなくなる。北千葉線事業は緊急性を失い,さらに千葉ニュータウン事業そのものの規模縮小もあって,整備の必要性も低下した。
こうした経緯から,県は1977年4月に鉄道局を廃止した。北千葉線事業はかつての所管部門であった企業庁に設けた鉄道事業部に継承された。さらに,1977年12月の定例県議会において,宅地開発公団への免許譲渡が決議され,正式に宅地開発公団の千葉ニュータウン事業・北千葉線事業への参画が決まった。議会では,成田新高速鉄道のルート案が具体化する前に県営鉄道を細切れにするのは時期尚早であると危惧した反対意見も見られたものの*1,県財政の逼迫による繰り延べが繰り返され,実現可能性が遠ざかっていた事業という認識が支配的であり,県議会は賛成に傾いた。
1978年に入ると,県と公団は事業譲渡に際した協定を次々と締結した。資金や用地,造成など様々な実務面の枠組みが協定化され,事業の引継ぎが具体化していった。しかし,公団鉄道と北千葉線の双方が開業した際に小室を介して両者で直通運転を行うという協定は締結されなかった。県と公団に分断された東京10号線の接続は考慮されなかったのだ。
街開きの時期と合わせた鉄道整備の必要性から,公団譲渡区間となる小室以東の開業予定時期も決定された*2。公団鉄道区間の開業予定は,千葉ニュータウン中央までは1980年4月,印西草深までは1984年4月,印旛松虫までは1986年4月とされた。いずれも単線開業の後に複線化するというもので,5段階のプロセスによる整備計画を策定した。ただし,印西草深~印旛松虫間の整備には不透明な要素が色濃く,複線化の予定は示されなかった。また,4駅(谷田)と6駅(印西天王前)の住宅建設はこの時点で凍結され,公団譲渡区間には5駅(千葉ニュータウン中央),7駅(印西草深),8駅(印旛松虫)の3駅のみが残った。つまり,整備計画は小室からひと駅ごとに東へ延伸開業していくものであった。この時の協定が公団鉄道の整備計画の基礎となり,その後の公団鉄道整備の指針として活かされていった。
協定により,宅地開発公団の千葉ニュータウン事業参画は1978年3月1日付と決まったが,鉄道事業の譲渡は翌4月1日付とされた*3。そして宅地開発公団への引継ぎを終えた千葉県は,1978年4月1日付で企業庁鉄道事業部を廃止した。千葉県の組織から鉄道部門は消滅し,これを追うように4月7日,北千葉線事業は凍結された。
4.2.北総線の開業と成田新高速鉄道
北千葉線事業の凍結から1年後の春,千葉ニュータウンに鉄道が開業した。1979年3月9日,北総開発鉄道が第1期区間である北初富~小室間を開業させたのだ。同月には西白井・小室地区,8月には白井地区で街開きが行われ,事業開始から10年余りの歳月を経て,千葉ニュータウンに「人」と「鉄道」がやってきた。
北総開発鉄道や千葉県営鉄道は千葉ニュータウンの通勤鉄道として意義付けられた事業であった。しかし,それぞれの事業が進捗する中で,千葉ニュータウン以外の存在に意識を向けることも少なくなかった。成田新高速鉄道の存在もその一つであった。1983年5月末,新東京国際空港アクセス関連高速鉄道調査委員会によって調査報告書が発表された。いわゆる成田新高速鉄道のルート案であった。報告書では,東京と成田空港を結ぶ鉄道ルート案をA案からC案までの3案に分けて提示した。
成田新高速鉄道ルート各案の経路と北千葉線との関係
ルート | 運行主体 | 経由地 | 北千葉線との関係 |
---|---|---|---|
A案 | 国鉄 | 東京―新砂町―西船橋― 新鎌ヶ谷― 小室 ―ニュータウン中央―印旛松虫―成田線交差部―空港 | 中沢付近~小室間は北千葉線免許ルートを使用。 小室~印旛松虫間は公団線ルートを使用。 |
B案 | 都営・京成・北総・ 公団・第3セクター | 東京―江戸橋―押上/上野―高砂―新鎌ヶ谷 ―小室―ニュータウン中央―印旛松虫―成田線交差部―空港 | 小室~印旛松虫間は公団線ルートを使用。 小室以西は北総線ルートのため北千葉線への影響なし。 |
C案 | 国鉄 | 東京―錦糸町―千葉―佐倉―成田―空港 | 特になし。 |
(新東京国際空港アクセス関連高速鉄道調査委員会「新東京国際空港アクセス関連高速鉄道に関する調査報告書」1982年より作成)
京葉線を利用して西船橋・新鎌ヶ谷経由で成田空港へ至るA案では,新京成線北初富駅付近から小室駅に至る区間を北千葉線の免許によって建設し,小室駅から印旛松虫駅にかけては公団鉄道の免許を利用すると明記された。なお,小室~印旛松虫間の公団鉄道の免許については,今日の成田スカイアクセス線の原型であり,都営浅草線・京成押上線を経由して成田空港に至るB案でも利用が検討された*4。
成田新高速鉄道のルート検討において,一部の案で北千葉線は復活の可能性を得た。しかし,当時の国鉄の経営状況などから,運輸省は1984年11月にB案の採択を決定した。北千葉線はニュータウン鉄道だけでなく,成田空港アクセス鉄道においても北総線に役目を奪われる結果となった。
4.3.公団鉄道の開業と本八幡駅の取扱い
千葉県より北千葉線事業の一部を承継した宅地開発公団は,1981年10月に日本住宅公団と合流し,住宅・都市整備公団(住都公団)となった。宅地開発公団の鉄道部門は住都公団交通部*5に承継され,当初単線開業が予定されていた千葉ニュータウン中央駅までの第1期区間は複線で一括整備する方針に改められた。そして1984年3月19日に小室~千葉ニュータウン中央間が開業した。県営鉄道の開業予定から丸10年遅れた開業であった。
一方,都と県の境界駅となる本八幡駅は,1974年から1975年にかけて千葉県と東京都(一部,京王帝都電鉄)の間で締結された各協定によって取扱いが定められていた。
東京都と千葉県の間で定められていた本八幡駅の当初の取扱い
- 本八幡駅は両者の共同使用駅とする(A)
- 東大島~本八幡間と本八幡~印旛松虫間は1978年3月に同時開通させる(A)
- 本八幡駅に係る費用は,都と県が折半して負担する。ただし,事務費は県が全額負担する(B)
- 本八幡駅の財産区分は,本八幡停車場中心から東大島方を東京都,新鎌ヶ谷方を千葉県に帰属する(C)
- 本八幡駅の用地取得は,財産区分の範囲で双方が行う(C)
- 本八幡駅の建設工事は,財産区分に関係なく都が行い(県範囲は都に委託),工事完了後に費用を清算する(C)
- 本八幡駅の管理や保守・運営は千葉県が行う(C)
※文末のA~Cはそれぞれの内容を定めた協定を示す。
A…「都市高速鉄道第10号線の建設計画に関する覚書」,B…「都市高速鉄道第10号線本八幡駅の調査,設計等に関する協定」,C…「本八幡駅の建設及び管理に関する協定」
しかし,県営鉄道のまま残された本八幡~小室間は事業を凍結されており,都営新宿線東大島~本八幡間の延伸開業と同時に北千葉線本八幡~小室間が開業する可能性は限りなく低かった。都と県の間で交わされていた原協定のままでは,都営新宿線の本八幡延伸開業時に支障をきたすことが予想されたため,1979年4月に暫定協定が結ばれ,本八幡駅の用地取得や費用負担は全て東京都が行い,全範囲を東京都の財産区分とすることが定められた*6。さらに,都営新宿線が本八幡駅まで延伸したことで,1992年12月には再度の改定がなされ,原協定上で千葉県の財産区分となっていた範囲から発生する利子相当額は千葉県が負担するものとされた*7。
4.4.沼田の知事就任と北千葉線の復活
1981年1月,戦後の千葉県政を揺るがす汚職事件が発生した。県知事川上を襲った「五千万円念書事件」である。川上が友納派を破って知事となった前年,1974年3月6日に不動産業者から知事選の選挙資金として五千万円を受け取った見返りに「事業の発展に全面的に協力」「利権等についても相談に応じ」るといった内容の念書を渡していたというものだ*8。事件の真相は未だ闇の中であるが,当時の県政界には「川上おろし」の動きがあったと指摘されている*9。友納や加納といった開発県政と対照的に,川上は農工業のバランスを重視し地道な発展路線を貫いていた。川上県政は建設事業費を友納時代より1割以上削減するなど,財界や産業界から反発を招いていた。ゆえに,川上の3選目が目前となったこの時期に公にされたというのだ。
川上は1981年2月に辞表を提出し,知事の座は沼田武に移った。沼田の政策路線は幕張新都心に代表されるように,友納以来の開発県政であった。そうした沼田が知事となって4年,1972年に答申された15号答申は目標年度の1985年度を迎え,新たな基本計画の答申時期が訪れた。1985年7月に運輸政策審議会から答申された7号答申は,2000年度を目標年度とした基本計画であった。しかし,その7号答申において,北千葉線は2000年度までに整備すべき路線から除外された。
1989年3月19日には都営新宿線が本八幡まで暫定延伸し,東京都は千葉県に対して北千葉線について今後の具体的な方針を示すよう要請した*10。先の答申から除外されて整備の大義名分を失ってはいたものの,事業凍結から10年が経過したことで,北千葉線を取り巻く環境は大きく変化していた。千葉ニュータウンの街開きが進んだこと,沿線地域が脱農化し市街化したこと,北総開発鉄道の全線開業が1990年度に控えていること,公団鉄道の千葉ニュータウン中央~印旛松虫間の事業が活発化していること――これらの要因に加え,景気が上向いていたことや,開発県政の沼田が知事の座にあったことも大きな好材料であった。
1990年6月の定例県議会において,沼田は「県および地元の市川,鎌ケ谷市など関係者で,本路線の成立可能性について調査検討したい」と答弁し,北千葉線の事業再開に向けて意欲を示した。長年凍結されていた事業の復活は注目を集め,千葉日報は1990年7月6日付の紙面で「北千葉線,建設再開へ前向き」と見出しを踊らせ1面で報じた*11。沼田の強い意欲により,1990年8月23日に県・市川市・鎌ケ谷市によって「北千葉線検討委員会」が発足した。同日の第一回委員会から検討が続けられ,1992年3月までに北千葉線は本八幡~新鎌ヶ谷間9.3kmを当面の事業区間とし,県・市川市・鎌ケ谷市が出資する第三セクター会社が運営主体となることが決められた。新鎌ヶ谷~小室間の取扱いは保留され,新鎌ヶ谷以西の開業後に検討することになった*12。
時代に翻弄され続けた千葉ニュータウンは遅れを抱えながらも街開きを迎えた。
1本から2本に増やされ,再び1本に戻ったニュータウン鉄道に,千葉県営鉄道の名は無い。北千葉線の凍結により,鉄道整備は北総と公団による二人三脚に委ねられた。
川上県政は突如として終わりを告げ,友納以来の開業県政が幕を開けた。そして,北千葉線は再び歴史の表舞台に立とうとする。停滞の10年を乗越えて現れた新たな北千葉線の姿とは――
- 5:計画の終焉につづく
脚注・出典
*1. 『昭和五十二年十二月招集 千葉県定例県議会会議録』第五号,p.371
*2. 「千葉ニュータウン鉄道の整備等に関する協定」1978年
*3. 「千葉ニュータウン開発事業の共同施行及びこれに関連する地方鉄道業の引継ぎに関する基本協定」1978年
*4. 『新東京国際空港アクセス関連高速鉄道に関する調査報告書』新東京国際空港アクセス関連高速鉄道調査委員会,1982年
*5. 都市基盤整備公団発行の「住宅・都市整備公団史」によると,交通部には交通業務課と交通施設課が組織されていた。1985年7月1日付で交通部は関連施設部と統合され,関連施設・交通部として改組されている。
*6. 「「本八幡駅の建設及び管理に関する協定」の暫定取扱いに関する協定」1979年
*7. 「都営新宿線本八幡駅の建設及び管理に伴う費用負担等に関する覚書」1992年
*8. 「千葉の歴史検証シリーズ13 五千万円念書事件1」,『ちばニュース』2003年9月付
*9. 「千葉の歴史検証シリーズ21 五千万円念書事件9」,『稲毛新聞』2004年5月付
*10. 「県営鉄道北千葉線検討委員会を設置」,『千葉日報』1990年8月21日付
*11. 「北千葉線,建設再開へ前向き」,『千葉日報』1990年7月6日付
*12. 「北千葉線の建設促進に関する覚書」1992年