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公開日:2016年2月8日

千葉県営鉄道北千葉線のあゆみ 3:計画の頓挫

3.交錯する思惑と計画の頓挫

3.1.中央政府への依存が招いた暗転

順調に思われた北千葉線事業に暗い影が落ちようとしていた。いざなぎ景気の終了後,1971年8月のドル・ショックに代表される経済不況によって,千葉県の税収入は伸び悩むようになった。それでも,県民税や不動産所得税等の税収が順調な伸びを見せていることや,田中角栄内閣が公共投資や社会保障に力点をおいた予算を組んでいたことから,県は積極財政を前提とした予算編成を行なってきた*1。1973年6月に策定された第四次総合5か年計画では,こうした県の財政難に加え,爆発的に増加する人口への抑制の必要性から,内陸工業開発の縮小や観光開発の一部破棄が盛り込まれた。もちろん千葉ニュータウンも例外ではなく,工期の繰り延べを余儀なくされた。これに追い打ちをかけたのが,計画発表から間もない1973年10月に中東6ヶ国が発動させた石油戦略による第一次石油危機であった。国内はスタグフレーション状態となり,狂乱物価の中で中央政府は総需要抑制策をとった。中央政府への依存を前提としていた県財政は傾き,公共投資の抑制を余儀なくされた。

こうして友納の開発県政は大きく失速した*2。北千葉線はもちろんのこと,千葉ニュータウン事業そのものが停滞し,実現は遠ざかった。

3.2.用地買収で後手に回る県

1973年10月の免許交付以来,千葉県と北総開発鉄道は1974年度の第1期開業に向けて準備を進めてきた。県は,北総が予定通り開業できるかを予てより疑問視してきた*3。しかし,蓋を開けてみると,開業が疑問視されたのは県の側であった。

千葉県による鉄道用地買収は,1974年度から国庫補助事業(ニュータウン鉄道建設費補助金)として開始された*4が,1974年6月時点の取得率は第1期線で約半分,第2期線に関しては反対運動の過熱で殆ど取得できていない状況だった。ちょうどこの頃発生した「北千葉線図面漏洩事件*5」によって北初富地区を中心に反対運動が起こったためで,県の説明会には300人近い住民が参加し流会に追い込むなど,騒動は週刊誌沙汰となっていた。県議会において「現実に不活発であった」と友納が答弁している*6ように,鉄道局に用地課が設置されるのは1974年10月のことであり,直接交渉による買収は「不活発」であった。

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△県が作成した,鎌ケ谷市中沢付近の用地買収状況を示す地図
色のついた箇所が買収地だが,殆ど買収が進んでいないことが分かる

一方,会社創設時から京成不動産がバックアップに回っていた*7北総開発鉄道は,沿線住民との理解を深め,土地所有者に買収価格を次々と提示していった。北総社内に用地部会が設置されたのは1972年8月*8のことであり,1974年中ごろには地上げを相当進めていたという*9。県が鉄道局に用地課を設置して間もない1975年2月には用地部会は解散し,北総は用地買収において県と対照的な動きを見せていた。

3.3.川上県政の「脱友納化」

友納にとって北千葉線は自らの政治生命をかけた事業であった。ゆえに,友納県政下において北千葉線事業は繰り延べこそされど,凍結や縮小の対象にはならなかった。しかし,友納がひとたび知事の座を離れれば,北千葉線を取り巻く環境は一変してしまう。

友納県政下において,副知事の座には川上紀一という人物がいた。川上の政策路線は友納と大きく異なっていた。開発主義を掲げる友納に対し,川上は農工のバランスを保ち,内政充実を掲げていた。政策路線の違いから両者は予てより仲が悪かった。しかも,1971年4月の知事選をめぐって両者は自民党候補者の座を争うことになり,これ以来自民党千葉県連は友納派と川上派に分裂,友納県政に大きな影を落としていた*10。知事は3選という暗黙の了解もあって,友納は1975年4月の知事選には出馬しなかったものの,出馬を表明した川上の対抗馬を擁立する*11など,友納と川上の争いは長きに渡って続けられてきた。

1975年4月の統一地方選は川上派の勝利に終わり,千葉県知事の座は川上のものとなった。川上の知事就任によって,千葉県政は友納の開発主義路線から大きな転換が図られた。千葉ニュータウン事業の縮小や内陸工業団地開発の凍結といった予算削減により,川上就任初年度の1976年度予算は1957年以降最低となる11.1%の伸び率に抑えられた。さらに,人事面でも転換が進められ,「第二の副知事」宍戸に代表される友納県政の重鎮が次々と更迭された*12。財政・人事の両面から脱友納化が進められたのだ。

こうした県政の変動は,北千葉線にも少なからず影響を与えた。しかし,川上とて千葉ニュータウンのインフラとして必要不可欠な北千葉線事業を凍結することはできず,繰り延べによる「棚上げ」状態となった*13。1977年6月の定例県議会で北千葉線事業の継続の意思を問われた際,川上は次のように答弁している。

次に鉄道問題でございますが,県営鉄道の問題でございますが,この小室から本八幡の線は,これは私ども断念はいたしておりません。これはやはり将来これはやってまいらなければならない線と考えております。(中略)

ただ用地買収の問題でございますが,これはできるだけしたいと思っておりますけれど,いま申し上げましたように東京都の東大島から本八幡までのこの十号線の進捗状況。それから県の鉄道会計の財政の問題。こういったことをにらみ合わせつつこの沿線の買収というものを検討してまいりたいと考えております。

凍結する意思はございません。*14

川上は北千葉線事業に対して継続の意思を示しながらも,友納時代から本八幡~印旛松虫間の事業に着手していたにもかかわらず,「小室から本八幡」という異なる認識を示していた。北千葉線事業はこのとき大きく変わろうとしていたのだ。

3.4.北総開発鉄道との会談

前述のとおり,千葉県知事友納と京成電鉄社長の川崎は,県営鉄道をめぐって「犬猿の仲」になっていた。しかし,1975年に川上が県知事の座につくと状況は一変した。川上が「脱友納化」に走ったのだ。県とライバル関係にあった北総開発鉄道にとって,川上の知事就任は大きなチャンスであった。1976年8月,北総開発鉄道副社長の梶本保邦は川上と会談し,県営鉄道の廃止を提案した

その時私は県がみずから鉄道をやるというのはお止めになったら如何ですか,民間にお任せくださいと言ったわけです。

それじゃあ一体どうすればいいのかという川上知事のご質問がありましたから,それには北総開発鉄道に出資してくださるのが一番いい方法だと言ったわけです。中に入っていらっしゃい。

そして第三セクター的な鉄道にすること,これが鉄道建設の将来の一つのあり方だと私は思いますので、県が北総開発鉄道に出資して下さい,人も送り込んでいらっしゃい。私どものほうで役員をお受けしましょうと。*15

県営鉄道事業の打開策に決定打を欠いていた川上にとって,梶本の提案は渡りに船であっただろう。会談の後,千葉県は北総開発鉄道への出資を決定し,1977年度に2億円を北総へ出資した。さらに,役員1名を北総へ送り込み,北総開発鉄道に参画した。

3.5.参画を目論む宅地開発公団

戦後の深刻な住宅不足の解決を図るため,広く住宅供給を手掛けてきた日本住宅公団という機関があった。日本住宅公団の発足から20年が経過した1975年9月,田中角栄内閣のもとで誕生した新たな公団が「宅地開発公団」であった。宅地開発公団の事業内容は日本住宅公団と異なり,300ヘクタール以上の大規模開発のみを対象とし,開発地区の基盤づくりに徹していた。つまり,住宅建設は行わず,いわゆるニュータウン造成に特化した公団だった*16。

しかも,宅地開発公団の設置について定めた宅地開発公団法には,「地方鉄道法(大正八年法律第五十二号)による地方鉄道業を行うこと」という条文が盛り込まれていた。建設省管轄である宅地開発公団が,運輸省管轄の鉄道事業に参画することができたのだ。公団の鉄道事業参画が認められた背景には,当時の大規模住宅供給地域における鉄道問題への解決策という意図があった。当時,大量に住宅が供給されても鉄道交通が整備されずに不便を強いられるという事例が相次いていた。建設省は運輸省にその責任を転嫁したが,運輸省は採算面から民間による参入の厳しさを指摘し,両省で争いとなった。この打開策として,宅地の開発者である公団が鉄道事業を運営するという方針が定まったのである*17。

しかし,発足したばかりの宅地開発公団には鉄道事業を行えるだけの開発地区が無かった。折角の機会に何か実績を作りたい――こうした考えが公団の千葉ニュータウン事業参画に影響した。宅地開発公団総裁の志村清一は川上と会談して千葉ニュータウン事業への参画を持ちかけた*18。北総開発鉄道では小室以東に鉄道を整備できず,何とかして小室以東に鉄道をつけたかった県と,鉄道事業に参画したかった宅地開発公団の利害は一致し,県営鉄道の公団移管が検討された。

県と公団のこの話に首を縦に振らなかったのが運輸省だった。そもそも北千葉線は前知事友納の肝入り事業であり,答申の審議中から免許申請に至るまで運輸省に切望し続けてきた千葉県がそれを数年で覆し,あげく建設省傘下の宅地開発公団に免許譲渡するとは何事だ――運輸省は免許譲渡を認めなかった。そこで県と公団は,県の持つ本八幡~印旛松虫間28.8kmの免許を折半し,千葉ニュータウン区域内で北総開発鉄道と重複しない小室~印旛松虫間12.5kmを公団が,残る本八幡~小室間16.4kmを県が免許を所有することとし,運輸省の承諾をとりつけた*19。

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△北千葉線39.3kmは分断され,その役目は北総と公団が果たすことになった


 

1975年を境に,千葉県営鉄道北千葉線をめぐる環境は一変した。経済の大変動により,県財政は行詰まった。

県政における友納派と川上派の争い鉄道事業における県と北総の争い,そして運輸省と建設省の争い

様々な思惑と駆引きによる大変動の時期を経て,いよいよ千葉ニュータウンは街開きの日を迎える――

 

脚注・出典

*1. 宮崎隆次(2010)「高度経済期の自治体と計画 友納県政期(一九六三年四月~一九七五年四月)の千葉県の場合」,『千葉大学法学論集』第25巻第1号,p.10,千葉大学.

*2. 同上

*3. 『昭和四十七年六月招集 千葉県定例県議会会議録』第二号,p.190,p.202.

*4. 『東京10 号線延伸新線の事業化に関する調査報告書』東京10 号線延伸新線促進検討委員会,2009年,p.70。

*5. 当時部外秘扱いだった北千葉線の建設図面が外部に漏洩していたとされる事件。中沢駅周辺の土地を大成建設が買占めており,大成側に図面が渡っていたのではないかと疑われた。後に大成側が計画線を知っていたと証言する告発者まで現れ(なお,告発者は北千葉線建設反対を唱える市民団体の会長であった),千葉県や大成建設のみならず鎌ケ谷市や北総開発鉄道を巻き込んだ騒動となった。事態は二転三転し,真相は明かされぬまま現在に至っている。

*6. 『昭和四十九年六月招集 千葉県定例県議会会議録』第四号,p.425-426。

*7. 北総開発鉄道は創業当初,鉄道事業と不動産事業の「二足のわらじ」による経営を目指していたことから,副社長には京成電鉄と京成不動産から一名ずつ就かせていた。

*8. 『鉄道におけるトータル・デザイン・ポリシー』北総開発鉄道デザイン・ポリシー研究会,1980年,p.3。

*9. 『昭和四十九年六月招集 千葉県定例県議会会議録』第四号,p.420。

*10. 前掲「高度経済期の自治体と計画 友納県政期(一九六三年四月~一九七五年四月)の千葉県の場合」,p.33-34。

*11. 「歴史検証シリーズ49 千葉県知事選の裏話」,『稲毛新聞』2007年7月付。

*12. 「千葉の歴史検証シリーズ9 埋め立て 知られざる秘話4」,『ちばニュース』2003 年5 月付。

*13. 『昭和五十一年六月招集 千葉県定例県議会会議録』第五号,p.356-357。なお,川上は北千葉線事業の「棚上げ」を否定している(同左p.361)。

*14. 同上,p.361。

*15. 梶本保邦(1981)「ニュータウン線としての北総開発鉄道の実態について〔上〕」,『汎交通』80(10),p.4-5,日本交通協会。

*16. 金湖恒隆(1980)「宅地開発公団における民間エネルギーの活用について」,『まちなみ』1,p.7,住宅生産振興財団。

*17. 前掲「ニュータウン線としての北総開発鉄道の実態について〔上〕」,p.5-6。

*18. 同上,p.6。

*19. 同上,p.7。