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公開日:2016年2月3日

千葉県営鉄道北千葉線のあゆみ 2:「北千葉線」の誕生

2.県営鉄道の事業化と「北千葉線」の誕生

2.1.都市交通審議会への陳情と鉄道問題懇談会

当時京成電鉄の社長であった川崎千春は,県の鉄道事業参入に大反対の立場をとっていた。県営鉄道が開業すれば,京成の競合相手になりかねないからだ。しかし,県営鉄道の実現に政治生命を賭けていた友納にとって,そう簡単に県営鉄道を諦めるわけにはいかなかった。かつては仲の良かった友納と川崎は,県営鉄道をめぐって激しく対立し,いつしか感情的に争うようになった*1。友納と川崎が犬猿の仲として知られるようになったのは,この一件からであった。その後,1971年に京成電鉄は千葉県に対し,千葉ニュータウンの足は自らで引き受けたいと北総開発鉄道の設立を提案した。友納は県に鉄道問題懇談会の設置を指示し,懇談会では翌年2月まで検討が続けられた。鉄道問題懇談会の結果,両者は,ニュータウンの開発段階に応じ,互いに協力して段階的な鉄道整備を行うことで一致した。

また,新東京国際空港へのアクセスを目的とした国鉄の空港新幹線(成田新幹線)が,千葉ニュータウンを経由する計画であった。その計画は,N3駅(小室駅)とN4駅(谷田駅)の間でニュータウンに入り,N4駅からニュータウンを東西方向に貫くというものであった。県は,先の鉄道問題懇談会などを踏まえ,千葉県営鉄道,北総開発鉄道,成田新幹線の3線における鉄道用地の配分を1972年までに次のように定めた。その配分とは,ニュータウンを東西方向に貫く複線鉄道2本分の用地を確保し,そのうち南側の複線は全区間にわたり千葉県営鉄道が使用する。北側の複線はN4駅以東を成田新幹線が使用し,成田新幹線に干渉しないN3駅以西を北総開発鉄道が使用する,というものであった*2。

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△1972年までに定められた千葉ニュータウンの線路用地計画
(千葉県・北総開発鉄道の各種資料による・市町村名および行政界は現在のもの)

1970年代に入り,県内で鉄道新線に対する議論が活発化したのは,都市交通審議会の答申を睨んでのことだった。運輸省によって1955年に設置された都市交通審議会は,1956年の第1号答申以来,公共交通に様々な転機をもたらしながら,東京都市圏の公共交通の礎を築いてきた。そして,1970年7月からは1985年度を目標とする新たな基本計画の策定に向けた審議が開始されていた。県が都市交通審議会を意識したのは,県自らの体質による。前述のとおり,県はこれまでも中央政府に依存し,その資金援助によって事業を実現してきた。県営鉄道が都市交通審議会答申に盛り込まれることで,県営鉄道事業に必要な資金の調達を円滑にするための大義名分が得られる。県はこれを目論み,運輸省に対して県営鉄道の都市高速鉄道網への組入れを陳情し続けていたのだ*3。

2.2.県営鉄道の事業化

1972年3月1日,都市交通審議会より第15号答申が公表された。1985年度を目標年度とした15号答申では,都市の外延化による長距離通勤を考慮し,千葉ニュータウンや多摩ニュータウンへの都市高速鉄道の路線延伸が盛り込まれた。千葉県内においては1号線,5号線,8号線,10号線の各線の延伸が盛り込まれ,答申直後の1972年3月定例県議会において早速話題に取り上げられた。友納は,4路線のうちどれを最優先に整備するかという質疑に対し,10号線は特に緊急度が高いとして*4,6月定例県議会での議案提出に前向きな姿勢を見せた。これを受け,友納の所属した自民党千葉県連は1972年4月に「鉄道運輸に関する特別委員会」を設置し,沿線視察や関係市町村からの意見収集を積極的に実施した。

都市交通審議会答申第15号における千葉県内延伸4線の答申状況

路線名経由地
1号線西馬込・品川―泉岳寺―三田―新橋―浅草橋―浅草―押上―青砥―高砂―大町附近―鎌ケ谷市北部―千葉ニュータウン小室地区
(青砥~高砂は、京成線の複々線化を行なうものである。)
5号線中野―高田馬場―飯田橋―大手町―茅場町―東陽町―西船橋―新船橋附近―飯山満―北習志野―八千代市中央部―勝田台
8号線保谷―中村橋―練馬―向原―池袋―護国寺―飯田橋―市ヶ谷―永田町―有楽町―銀座―明石町―月島―豊洲―辰巳―港岸
―(経由地留保)―海浜ニュータウン
豊洲―東陽町―千田町―住吉町―錦糸町―押上―亀有
10号線橋本―多摩ニュータウン中央―調布―芦花公園―新宿―市ヶ谷―神保町―浜町―住吉町―東大島―篠崎町―本八幡―柏井―鎌ケ谷市北部
―千葉ニュータウン小室地区―千葉ニュータウン印旛地区(調布―新宿は、京王線の複々線化を行なうものである。)

(都市交通審議会「都市交通審議会答申第15号」1972年より一部抜粋・改変)

そして1972年6月,同月の定例県議会において友納は千葉県営鉄道の事業化に踏み切った。千葉県営鉄道敷設案を含む10号線関連の議案2案は6月28日付で友納より提案され,審議された。友納は提案の理由について,千葉ニュータウンの街開きが1974年度に予定されていることから,通勤を含めた輸送確保上,地方鉄道法に基づいた免許申請を行いたいためだと述べている*5。友納によって提出された県営鉄道議案には,一つの大きな特徴があった。それは路線の経路であり,彼はその終点を成田駅としていた。前述のとおり,県は答申以前から県営鉄道新線の検討を行なっていたが,その過程において,当時事業化の始まっていた成田ニュータウンが意識された。都市交通審議会の答申範囲は東京50km圏に限られることから,先の答申では10号線の終点は千葉ニュータウン印旛地区とされていたが,千葉県はその先への延伸を見込んでいたのだ。ここに,中央政府と県の交通政策に対する視野の違いが表れている。

県営鉄道議案への質疑は,6月定例会において数度行われた。なかでも,自民党の宇野県議による質疑は,当時の県営鉄道計画を明らかにする点で重要なものであった。宇野県議に対し友納は,県営鉄道はニュータウン通勤新線であると意義付け,成田空港への新幹線構想とは全く別の存在であると答弁した。その一方で,工業・観光の面から開発の機運がにわかに高まっていた九十九里方面への延伸構想に触れるなど,事業の拡大に意欲的な一面も見せた。さらに,人員や輸送力などを具体的な数値を用いて示したが,中央政府からの助成確保や黒字化には課題を残している旨を明らかにしている*6。

2.3.多摩ニュータウンに倣え

県営鉄道議案は6月定例会中の7月11日に可決された。これを受け,県は直ちに鉄道事業開始の準備を整え,7月中旬に運輸省へ地方鉄道法に基づく敷設免許申請を実施した。しかし,運輸省はこれを却下し,事業計画の施行区分に基づく分割再申請を指示した*7。県は,第1期~第3期の施行区分に基づく形で免許区間を3分割し,1973年2月27日に再申請した。

千葉ニュータウンへの鉄道事業参画を宣言していた京成電鉄は,15号答申の公表直後である1972年4月28日に北総開発鉄道株式会社を創立し,千葉ニュータウンにおける鉄道事業参入への足掛かりを作った。そして,千葉県の免許申請から遅れること約1ヶ月,1972年8月7日に京成高砂~小室間の地方鉄道法に基づく敷設免許を申請した。こうして千葉ニュータウン通勤新線は,県と北総の2事業者によって免許が競願された。

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△鉄道問題懇談会を経て県と北総が取り決めた千葉ニュータウン鉄道整備計画(千葉県による各種資料から作成)

1973年10月4日,千葉県営鉄道と北総開発鉄道に対し地方鉄道敷設免許が交付された。先の15号答申を含め,なぜ千葉ニュータウンに2本の鉄道を必要としたのであろうか。その背景には,先行して開発の進められていた多摩ニュータウンの影響が色濃くあらわれていた。多摩ニュータウンにおける鉄道事業には,京王帝都電鉄,小田急電鉄,西武鉄道の3者が免許申請し,京王と小田急の2者に対して免許が交付されていた。当時,多摩ニュータウンの計画人口は41万人規模とされており,この事例に基づくと,41万人に対して2本の鉄道路線が必要という計算になる。一方で千葉ニュータウンは34万人規模の計画であることから,多摩の事例から正比例で求めると,必要な鉄道路線は1本半である。しかし,鉄道を0.5本整備することはできない。ならば2者が競願しているのだから,四捨五入して両者に免許を交付しよう――こうした考えによって,千葉ニュータウンの鉄道整備計画は千葉県営鉄道と北総開発鉄道の2者に委ねられた*8。

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△多摩ニュータウンに整備された2本の鉄道新線が千葉ニュータウン鉄道計画に大きく影響した。

念願の敷設免許を手に入れた千葉県だったが,交付された内容は決して県の思惑に即していなかった。前述のとおり,県は15号答申の範囲外にあたる印旛松虫~成田間を第3期区間として申請していた。しかし,運輸省はこの区間の免許交付を時期尚早として見送り,第1期および第2期区間にあたる本八幡~印旛松虫間のみ免許を交付した。線路実測平面図に代表されるような具体的な計画図面・書類の作成は,敷設免許を得た区間に対して行われるのが一般的である。免許を得られなかった印旛松虫以東は,この時点で事実上の凍結状態に陥った。

2.4.県営「北千葉線」の誕生

県営鉄道の事業化に際し,県組織も次第に鉄道事業を意識したものへ改組されていった。開発庁都市開発局は1971年7月21日に開発庁新都市開発局となり,1972年11月には鉄道建設課が発足した。さらに,1973年4月には鉄道管理課と鉄道建設事務所が発足し,県営鉄道事業を行うために必要な組織が整えられた。

また免許交付を受け,県は建設工事に向けた準備を進めていった。建設工事の実施には工事施工認可が必要なため,免許交付から1ヶ月後の1973年11月1日に第1期線の土木工事を主とする第一次分割工事施工認可を申請,さらに翌1974年1月26日には電気工事を主とする第二次分割工事施工認可を申請した。

1974年度に行われた千葉県の機構改革によって,新都市開発局鉄道部は千葉県鉄道局として独立することが1974年2月定例県議会で決定し,4月に千葉県鉄道局が発足した。鉄道事業のための独立した一機関を設けるほど,当時の千葉県では鉄道事業に対する機運が高まっていたのである。また,同年10月に鉄道局の機構改革が行われ,用地課が設置された。これと時を同じくして,これまで「習志野線」や「千葉ニュータウン線」などと呼ばれてきた県営鉄道新線の正式名称が決定した*9。千葉県営鉄道新線の名称は「北千葉線」と命名され,このとき初めて「千葉県営鉄道北千葉線」の名前が誕生したのである。

1974年12月には第1期線の建設工事が小室地区で始まった。翌1975年2月10日には北千葉線の起工式が行われた。また,第1期線と並行して第2期線の分割工事施工認可が1974年6月から7月にかけて申請され,免許区間全線の建設工事に向けた準備が整えられていった。


 

千葉県鉄道局の設置,北千葉線の命名,建設工事の開始――北千葉線事業は計画実現に向けて着実に進行しているように思われた。

しかし,北千葉線の存在を根底から覆すような事態が刻一刻と迫りつつあった。暗雲は事業の内と外から垂れ込める。その先にあるのは――

 

脚注・出典

*1. 野口恒(1991)『「夢の王国」の光と影: 東京ディズニーランドを創った男たち』阪急コミュニケーションズ,p.63,p.86.

*2. 安藤鉄也(1972)「北総開発鉄道の事業計画」,『交通技術』27(8),p.306-309,交通協力会.

*3. 『県営鉄道千葉ニュータウン線本八幡・成田間説明資料』千葉県,1973 年1 月,前書き.

*4. 『昭和四十七年二月招集 千葉県定例県議会会議録』第七号,p.942,p.953-954.

*5. 『昭和四十七年六月招集 千葉県定例県議会会議録』第二号,p.188.

*6. 同上,p.200-205.

*7. 伊藤裕(1978)「変ぼうする千葉ニュータウン鉄道」,『鉄道ピクトリアル』1978 年6 月号,p.20,電気車研究会.

*8. 梶本保邦(1981)「ニュータウン線としての北総開発鉄道の実態について〔上〕」,『汎交通』80(10),p.3,日本交通協会.

*9. 『県営鉄道「北千葉線」の概要』千葉県鉄道局,1975 年,見開き。