北総線の車庫計画ものがたり

2014年2月24日公開・ 最終更新

車庫は鉄道事業に欠かせない鉄道施設のひとつである。鉄道車両を収容し留め置く場としてのみならず,日常的な保全や検査を行う場として,ときに修繕や改造を行う場として,車両に関する業務の拠点として位置づけられる。北総線においては,かつては西白井駅に隣接した西白井車庫,そして現在は印西牧の原駅と印旛日本医大駅の間に設けられた車両基地(印旛車両基地)を車庫としている。

印旛車両基地の検修庫(2022.06.26:印旛車両基地)

△印旛車両基地の検修庫(2022.06.26:印旛車両基地)

現在の北総線の車庫である印旛車両基地は都市基盤整備公団(都市公団)によって整備され,2000年7月から使用されている。約78,000平方メートルの敷地には,8両編成12本を縦列で収容可能な留置線に加え,列車検査や月検査に使用できる検修庫,車輪転削設備などを備えている。敷地の一部は緑地帯として整備され,周辺環境にも配慮された近代的な車両基地である。

ところが,この印旛車両基地は北総線の車庫として計画された施設ではない。本来は他の鉄道で使用される車庫であり,北総線の車庫は別に設けられる計画だった。

ニュータウン線と車庫

千葉ニュータウンにおける鉄道事業の系譜

千葉ニュータウンにおける鉄道事業の構図は見た目に反して複雑である。ニュータウン地域を東西に貫く北総線が唯一の鉄道路線として地図に描かれる一方で,実情は北総鉄道を運行主体とする北総線,京成電鉄を運行主体とする成田空港線の各列車が同じ線路を共有して運行している。それどころか,それら列車の走る線路や電気設備などの所有は小室を境に北総鉄道と千葉ニュータウン鉄道の2社に分かれている。これを法制度上の区分で表すと,北総鉄道が京成高砂・小室間の第1種鉄道事業者かつ小室・印旛日本医大間の第2種鉄道事業者,千葉ニュータウン鉄道が小室・印旛日本医大間の第3種鉄道事業者,京成電鉄は全区間の第2種鉄道事業者と位置づけられる。すなわち3社の鉄道事業者が千葉ニュータウンで鉄道事業を営んでいるのだ。

これら鉄道事業者のうち,北総線の車庫である印旛車両基地を所有するのは千葉ニュータウン鉄道である。同社は都市公団の鉄道事業撤退に伴い設立された鉄道事業者で,都市公団の所有していた小室・印旛日本医大間の鉄道施設と車両を承継した。千葉ニュータウンにおける鉄道整備は小室以西を北総,小室以東を公団で担ってきたが,その構造が今なお残っている。

千葉ニュータウンの鉄道を北総と公団の2者で整備した背景には,千葉ニュータウン開発初期における千葉県と京成電鉄の関係があった。かつて千葉ニュータウンは県営事業として1966年に計画され,鉄道も県の直轄で整備することが構想された。ところが自社の事業区域における県営鉄道計画に京成電鉄が異を唱える格好で鉄道整備を表明し,両者の調整を経て1972年に千葉県と京成系子会社の北総開発鉄道がそれぞれで千葉ニュータウンの通勤新線の整備を担うことになった。県営鉄道は東京10号線の延伸部として都営新宿線に乗入れ,都営新宿線本八幡駅を起点に千葉ニュータウン印旛地区に至るルートを,北総開発鉄道は東京1号線の延伸部として京成線及び都営浅草線に乗入れ,京成線京成高砂駅を起点として千葉ニュータウン小室地区に至るルートを事業化した。

紆余曲折の末に県営鉄道事業は1978年に凍結されたが,北総開発鉄道と重複しない小室以東の免許線についてはニュータウン開発に不可欠として宅地開発公団が免許の譲渡を受けて整備を継続した。その宅地開発公団は住宅・都市整備公団(住都公団),そして都市公団へと改組され,公団の鉄道事業もそれぞれへ継承されていった。つまり千葉ニュータウン鉄道の系譜は公団鉄道を経て県営鉄道に遡ることができる。

ニュータウン線における車庫の整備

北総開発鉄道や県営鉄道のようにもっぱらニュータウンの足として整備された通勤新線は「ニュータウン線」とも呼ばれる。ニュータウン線に限らず鉄道の整備には巨額の費用を要するが,既成の鉄道路線に乏しい開発途上のニュータウンにおいて重要な足となる新線整備を促進するため,ニュータウン線の整備には国による助成措置が設けられている。助成措置はニュータウン線を整備しようとする鉄道事業者を対象としたもので,その根拠は1972年5月に大蔵省,運輸省,建設省により締結された「大都市高速鉄道の整備に対する助成措置等に関する覚書」にある。また,運輸省と建設省は覚書に基づく細目協定「ニュータウン線建設工事に対するニュータウン開発者負担の細目に関する協定」を締結している。

先の細目協定では,ニュータウンを開発しようとする開発者とニュータウン線を建設しようとする鉄道事業者との間における用地取得や工事費負担のあり方を定めている。ニュータウン区域内における鉄道用地の取得はニュータウン開発者によって行われ,粗造成の後に鉄道事業者に譲渡されることが定められていて,この鉄道用地のうち車庫については以下のように定められている。

(車庫に係る負担等)

第8条 ニュータウン開発者は,ニュータウン線に係る車庫のための用地をニュータウン区域内に確保するよう努めるものとする。

(運輸省鉄財第122号・建設省計宅開発第26号「ニュータウン線建設工事に対するニュータウン開発者負担の細目に関する協定」)

北総開発鉄道と県営鉄道の整備にはこの助成措置が利用された。両者はそれぞれ1974年3月にニュータウン開発者である千葉県との間に協定を締結している。そして細目協定に則り,両者の車庫は千葉ニュータウン区域内に確保された用地にそれぞれ設けられることになっていた。

かつて両者が新線建設に際して国に提出した許認可申請の書類や図面が千葉県に残っている。これによると,北総開発鉄道の車庫は小室駅の先に「小室車庫」として,県営鉄道の車庫は現在の印旛車両基地にあたる位置に「印旛電車基地」として計画されていたことが分かる。千葉ニュータウン鉄道の系譜が県営鉄道に遡れるように,現在の北総線の車庫である印旛車両基地もまた県営鉄道の車庫に遡ることができる。そして,北総開発鉄道が計画し実現しなかった本来の車庫とは小室車庫を指している。

小室車庫

車庫の概要

小室車庫の建設予定地は小室駅の北東,白井市神々廻の神崎川左岸にある。小室駅からは約1.5kmの位置にあり,小室駅と車庫の間は入出庫線で結ばれる計画だった。車庫の敷地面積は約9万平方メートルで,現在の印旛車両基地よりも広い。

北総線小室車庫と小室駅の位置関係

△北総線小室車庫と小室駅の位置関係

車庫の申請図面には予定されていた付帯施設なども書き込まれている。車両関係の施設のみならず,保線や電気といった工務系施設もある。また,検測車を導入する計画もあったのか検測車車庫という記載も見て取れる。敷地の南東端には社員寮や独身寮もあり,完成していれば北総線の拠点にふさわしい施設となったことだろう。

小室車庫の敷地内に計画されていた各施設とその配置

△小室車庫の敷地内に計画されていた各施設とその配置

要となる車庫施設としては,分解を要する重要部検査や全般検査に必要な工場機能はなく,あくまで日常的な検査や小規模な修繕に対応した検修施設に留まるものの,10両編成15本を収容可能な留置線や最大5編成が同時に検査可能な仕立検査庫,車輪転削設備などが計画されていた。黎明期における北総線の運転計画には,30万人以上の計画人口を掲げた千葉ニュータウン構想を反映してラッシュ時には10両編成を5分間隔で運転する壮大な構想が計画されていた。会社設立直後の1972年11月に作成された概要資料によれば,開業8年後の1982年度までに128両を保有する計画が示されている。こうした初期の北総線計画が小室車庫の規模に表れている。

整備計画の断念

会社設立当初の北総開発鉄道は理想の鉄道像を追い求め,近代的で合理的な鉄道を構築しようと前例のない様々な挑戦を重ねた。会社設立から開業まで7年もの歳月を理想の具現化に腐心してきた北総開発鉄道は,開業に際して多くの業界誌に努力と成果を綴った。それは営業方針やデザインのみならず,車両や鉄道施設の設計に至るまで多岐にわたった。

ところが,北総開発鉄道が車庫や車両の検修を紹介することはほとんどなかった。主任技術者として黎明期の北総開発鉄道を支えた黒岩専務は小室車庫の顛末について次のように述べている。

当社の車両基地は元来小室地区に設ける計画で,これに対する開発者負担については,線路と同様の負担をすることに県も了承済みであった。(略)しかしながら,第4駅付近のニュータウン用地取得が難航していたため,同一地区で車庫用地の買収交渉を当社が開始することに県は困惑を感じ,団地交渉を暫く待って貰いたい旨要請があって,今日に到っている。その間建設工事は進展し,開業の時期も追々迫ってきたので,暫定的な施設を設けることに意見が一致し,今日の西白井基地が誕生したものである。

(黒岩源雄(1979)「北総7000形車両の概説とその検修」,『鉄道ピクトリアル』1979年8月号)

第4駅とは小室・千葉ニュータウン中央間に計画されていた谷田駅(仮称)を指すものである。千葉ニュータウンの用地取得は小室や印旛地区において早期に進捗した一方で,根強い反対により停滞した地域も少なくなかった。県営鉄道を承継した公団線の小室・千葉ニュータウン中央間は北総開発鉄道のⅠ期開業と同時に開通する計画だったが,実際の開通が1983年度末と計画から大きく遅れたのもこうした用地取得の難航からだった。谷田地区で難航した用地取得の影響を受ける格好で小室車庫の用地取得は留保され,結果として凍結された県営鉄道の西白井駅用地を活用した西白井車庫を暫定整備せざるを得なくなったのである。

小室車庫の配線略図

△小室車庫の配線略図

もし小室車庫が実現していたならば,北総開発鉄道は自信をもって紹介しただろう。しかし理想の車庫である小室車庫は実現しなかった。県営鉄道に代わって小室以東の鉄道整備の責を継承した公団は,小室・千葉ニュータウン中央間のⅠ期線を1984年3月に開業させて北総線との直通運転を開始し,千葉ニュータウン計画縮小後の1987年度にはⅡ期区間の基本設計を実施して印旛電車基地を元にした新たな車庫計画を具体化させていった。千葉ニュータウン計画の縮小に加えて将来の公団車両基地の整備が具体化したことで小室車庫の必要性は低下し,北総Ⅱ期線の開業に伴う車両増は西白井車庫の拡張で対応されることになった。1990年2月,西白井車庫の拡張に伴う許認可申請にあわせて小室車庫を計画から廃止する申請がなされ,翌3月の認可をもって小室車庫は北総線の整備計画から抹消された。

予定地の現況

北総線の小室以東はかつての県営鉄道の鉄道用地に敷設されているが,県営鉄道は新鎌ヶ谷・小室間で北総開発鉄道に隣接して敷設される計画だったことから,北総線の線路は小室を境に北総開発鉄道の用地から県営鉄道の用地へ複線分の幅だけ移動している。小室駅終点方の不自然な曲線がそれで,隣接する別の路線だった両者をつないだことで生じたものである。小室駅終点方の曲線を経て接続する小室高架橋は県営鉄道の高架橋として建設されたもので,つまり小室高架橋から終点方が県営鉄道から承継された区間である。

小室車庫入出庫線の一部は保守用車の留置線として整備された(2013.02.25:小室・千葉ニュータウン中央間)

△小室車庫入出庫線の一部は保守用車の留置線として整備された(2013.02.25:小室・千葉ニュータウン中央間)

小室車庫に至る本来の北総線は,県営鉄道の高架橋に隣接して設けられる入出庫線の小室第一高架橋に接続する計画だった。小室第一高架橋を含む入出庫線は小室車庫と同様に未成となったが,小室駅から小室第一高架橋に至る区間のみ保守用車の留置線として敷設された。計画では小室駅と小室第一高架橋の間にはシーサスクロッシングが挿入されることになっていたが,小室駅は起点方のシーサスクロッシングのみ整備され,入出庫線を前提とした終点方のシーサスクロッシングは整備されなかった。

神崎川右岸には小室高架橋の建設予定地が確保されている(2014.02.05:小室・千葉ニュータウン中央間)

△神崎川右岸には小室高架橋の建設予定地が確保されている(2014.02.05:小室・千葉ニュータウン中央間)

神崎川右岸の谷戸には北総線と国道464号の間に未利用地が広がる。左岸に渡ると国道464号が北総線に寄り付き,未利用地は幅を狭める。この未利用地は国道464号(北千葉道路)専用部の道路用地として確保されたものだが,右岸側には小室車庫に至る入出庫線の鉄道用地として確保された土地も含まれている。左岸側で幅が狭くなるのは,神崎川付近で入出庫線が北側にそれて国道464号をオーバーパスし,以東は専用部の道路用地のみとなるためである。

入出庫線は鎌倉橋付近で地平に下りる計画だった。地平に下りた先,神崎川と県道189号千葉ニュータウン北環状線に挟まれた谷戸が小室車庫の予定地である。小室車庫付近の用地は未取得のまま計画廃止を迎えた。小室車庫の予定地に広がっているのは千葉ニュータウン開発以前の谷戸の景観であり,それは小室車庫によって失われるはずだった景観でもある。

小室車庫予定地から小室駅方面を望む(2014.02.05:小室車庫予定地)

△小室車庫予定地から小室駅方面を望む(2014.02.05:小室車庫予定地)

西白井車庫

引上線計画

北総線の開業までに建設できなかった小室車庫の代替として整備されたのが西白井車庫である。先の黒岩専務による記述のとおり暫定施設として整備されたものであり,小室車庫や印旛車両基地への移転を前提としながらも2000年7月まで21年にわたって運用された。

当初計画における西白井駅配線略図

△当初計画における西白井駅配線略図

暫定の車庫用地に西白井が選ばれた理由に言及した資料は現在のところ確認できていない。しかし,1973年10月の工事施工認可申請に用いられた申請図面や当時の地元説明会に使用された資料を確認すると,西白井駅は当初計画時点から停車場に位置づけられており,構内の終点方には上下線間にY字の引上線1本が設けられる計画だった。西白井車庫の建設は遅くとも1977年までには決まっていたようだが,計画変更で車庫を受け入れる素地が西白井にはあったと考えられる。

当初計画されていた引上線については,西白井車庫の建設に際して必要となった終点方の渡り線に支障することから敷設が中止された。一方で上下線は引上線を間に挟んだ位置のまま敷設されており,現在も上下線間に引上線の予定地が残っている。

暫定車庫の開設と課題

西白井車庫の配線略図(1979年3月時点)

△西白井車庫の配線略図(1979年3月時点)

さて,1979年3月の北総Ⅰ期線開業にあわせて開設された西白井車庫は非常に手狭な車庫だった。先述のとおり車庫用地の出自は凍結された県営鉄道西白井駅の予定地を暫定的に転用したものだが,県営鉄道の西白井駅は相対式ホーム2面2線の停留場として計画されていたことから,用意された鉄道用地の幅は決して広くなかった。幸いにも当時の千葉ニュータウン計画は失速状態にあり,北総開発鉄道の開業時点で見込まれた入居人口は当初計画よりも大幅に少なくなっていた。当初計画では開業時点で66両の車両を保有しようとしていた北総だったが,現実には6両編成3本の18両で開業を迎えており,この手狭な車庫でも運用することができた。

西白井車庫に留置される7000形車両(1980.05.02:西白井車庫)

△西白井車庫に留置される7000形車両(1980.05.02:西白井車庫)

開設当初の西白井車庫には,列車検査場を兼ねたわずか3本の留置線と機械洗浄線を兼ねた引上線,そして検査等に使用する小規模な検査庫と修繕庫しかなかった。収容能力は引上線を含めても6両編成4本分に留まり,検査庫のピットは2両分のみだった。開業を目前に控えた根本運輸課長が西白井車庫の概要を以下のように述べている。

将来は,車両基地を建設する予定であるが,諸般の事情から暫定的な検査修繕設備を西白井駅付近に建設した。機械設備は最小限とし,車両の外板は自動洗じょうとした。検査ピットも2両分,収容力も引上げ線を計上して6両×4本で,全,重検等の部分委託を考慮しても80両程度である。

(根本幸太郎(1979)「北総の黎明 北総開発鉄道の営業開始」,『運転協会誌』1979年2月号)

しかしながら,小室車庫と比べて大きく劣る西白井車庫の設備では車両保守の苦労が絶えなかったようだ。開業からわずか1年後,先の根本課長が車両保守の苦労を以下のように綴っている。

車両は一部に問題があったが完全に克服して極めて順調である。ただ,車輪削正ができないので踏面故障の対処が姑息な手段しか採り得ないため,騒音が当初より大きくなった。重要部検査をこの9月から始めるべく準備中であるが,この検査のとき削正して完全にすることにより以前の走行状態としたい。

(根本幸太郎(1980)「我が社の話題(21)北総開発鉄道」,『運転協会誌』1980年7月号)

西白井車庫の設備は暫定施設として必要最低限に留められ,小室車庫計画には盛り込まれていた車輪転削盤は設備されていなかった。一方で根本課長が言及しているように,当初において重要部検査や全般検査といった分解を伴う定期検査は西白井車庫で実施されていた。これらの検査は起点方の修繕庫で編成を3両ずつのユニットに分割して実施され,整備等は必要に応じて社外に部分委託された。公団線の開業によって車両数が増えて以降は新鎌ヶ谷や千葉ニュータウン中央といった箇所への夜間滞泊が積極的に活用され,1986年以降の定期検査は宗吾工場(公団車両は椚山工場)で実施されるようになった。

拡張工事

北総Ⅱ期線の開通に際しては所要車両数の大幅な増加が見込まれ,西白井車庫の収容能力では対応できなくなった。ところが北総Ⅱ期線の建設途上にあった1986年には千葉ニュータウンの開発計画が縮小され,県営鉄道の復活が見通せないなかで1987年には住都公団が公団Ⅱ期線の基本計画を作成して車両基地計画をまとめていた。そうした状況下において本来計画の小室車庫を整備する必要はなくなり,印旛車両基地の完成まで今しばらく西白井車庫を使用すべく1990年11月に改良工事が実施された。

拡張工事完成後の西白井車庫の配線略図(1991年3月時点)

△拡張工事完成後の西白井車庫の配線略図(1991年3月時点)

改良工事により西白井車庫の能力は大幅に向上した。8両編成に対応した設備とするため,列車検査場にはパンタグラフ点検台が増設され,検査庫は延伸されて4両分となった。留置線や引上線は延伸と起点方への増設によって8両編成7本を収容できるようになり,修繕庫は留置線の増設に伴ってさらに起点方へ支障移転された。しかし,あくまで改良工事は車両の留置や列車検査等の日常的な保守に必要な能力を増強するものであり,将来的な移転を前提とした最低限の車庫である点は改良前から一貫していた。

西白井車庫の改良は,開設当初から抱えていた構造上の欠点をさらに悪化させることにも繋がった。留置線の延伸や増設は県営鉄道のために確保されていた鉄道用地を使用する他になく,車庫用地として確保されたわけではない用地に細長く施設を展開するしかなかった。車両の入換にも不便するような始末であり,こうした西白井車庫の課題点を印旛車両基地の建設にあたって住都公団の堀田交通施設課課長代理が以下のように述べている。

現在は,西白井駅に併設された北総開発鉄道の暫定的な車両基地を使用しているが,検修庫が小規模でピット延長も短く,敷地が細長い形状であ
るため,各施設が直列に配列されており,効率的な保守作業の支障となっている。

(堀田 博(1998)「住都公団鉄道Ⅱ期線(その2)工事の施工」,『日本鉄道施設協会誌』1998年7月号)

しかも,改良工事で西白井車庫の収容能力をほぼ倍増させたにもかかわらず,北総Ⅱ期線の開業によって増備された8両編成10本の北総所属車両すべてを留置できる能力はなく,依然として駅での分散留置に頼らざるを得なかった。その状況は公団Ⅱ期線の印西牧の原延伸に伴って1994年に2編成が増備されたことでさらに悪化した。解決策となる印旛車両基地の開設時期については,印旛日本医大延伸の前に暫定開設させる方針だった1987年の基本計画とは異なり,実際には印旛日本医大延伸と同時に開設されたことから,公団Ⅱ期線の段階的延伸によって増備された車両の受け皿となる車庫が確保できない状況となった。最末期の印旛日本医大延伸直前に12本目となる9128編成が増備された際には矢切副本線にも分散留置を強いられている。

印旛車両基地の開設当時の西白井車庫の状況を都市公団の丸山交通施設課係長が以下のように述べている。暫定施設として開設された西白井車庫は,本来の小室車庫に代わって整備された印旛車両基地の完成により,開設から21年を数えた2000年7月にようやくその重すぎる任を解かれる日を迎えた。

北総および公団車両も,運行頻度および営業キロの増加とともに増え,今回の開業で12編成(1編成8両)96両となりました。北総・西白井車両基地の留置能力を大幅に上回り,数駅に分散留置せざるを得ない状況であるため,両者が共同で新しい車両基地を建設したものです。

(丸山正浩(2000)「都市公団線 印西牧の原~印旛日本医大駅間延伸開業」,『運転協会誌』2000年10月号)

暫定車庫から保守用基地へ

西白井車庫は2000年7月21日の第2248Tの出庫をもって役目を終え,新たに開設された印旛車両基地に車庫機能を譲った。しかし移転後も車庫用地は県に返却されず,施設の一部を転活用した保守用基地として新たな役目を担うようになった。保守用基地は印旛車両基地の一角にも整備されていたが,西白井は全線のおおよそ中間地点に位置しており,車両基地時代の施設がそのまま使用できる環境にあったことから,西白井保守基地は印旛車両基地と並行運用された。

留置線撤去後の西白井保守基地の配線略図(2008年3月時点)

△留置線撤去後の西白井保守基地の配線略図(2008年3月時点)

西白井保守基地では,かつて車庫の一角にあった保守用車庫のみならず,検査する車両のなくなった検査庫や引上線も活用された。これらは保守用車の留置や資材の積込などに活用され,引上線には積込積卸のためにホームが整備された。また,敷地内にあった車両区事務所などの建屋には東横車輛電設(東急テクノシステム)や京成電設工業といった工事会社が入居を続けた。その一方で保守用基地では不要となった留置線やパンタグラフ点検台,洗浄台といった設備は2007年度までに大半が撤去された。

留置線などの撤去後も起点方にあった修繕庫はしばらく解体されずに残された。修繕庫の中には2006年度に廃車となった7000形7001号が収容されていたが,2011年度に修繕庫を含む起点方の全施設が撤去された。7001号は修繕庫の解体に先立つ2012年2月に駅起点方の道路橋下に移設され,仮保存が続けられた。

拡張後の西白井保守基地の配線略図(2017年3月時点)

△拡張後の西白井保守基地の配線略図(2017年3月時点)

撤去された留置線の跡地は,先の7001号の仮保存用地や西白井駅のバリアフリー化工事に伴い新設されたエレベータ建屋用地として活用された以外には長らく手つかずの状況であったが,2013年度からの保守基地の拡張整備により再び線路が敷設された。拡張整備は2013年度から2016年度にかけて行われ,検査庫の起点方や山側にも保守用車の留置が可能となった。ホームに隣接した箇所にはレール置場が整備され,駅本屋と保守基地を結ぶ保守用階段も新設されたことで上り本線を横断せず安全に移動できるようになった。また,検査庫周辺には教育用の電車線や信号設備が整備されたが,研修設備の一部は後に撤去された。

車両基地時代の検査庫は今も保守用車の留置や資材の保管に使用されている(2022.05.14)

△車両基地時代の検査庫は今も保守用車の留置や資材の保管に使用されている(2022.05.14)

印旛車両基地・印旛電車基地

印旛電車基地の概要

印旛電車基地は,東京10号線における東大島・印旛松虫間の延伸線を担う東京都交通局と千葉県鉄道局の共同車庫として計画された。計画地は今日の印旛車両基地を含む印西市つくりや台の一帯で,敷地面積は約40万平方メートルにも及ぶ壮大な車庫計画だった。印西草深駅と印旛松虫駅の駅間に位置することから,印西草深駅から分岐する約1.5kmの入出庫線も整備が計画されていた。

印旛電車基地の配線略図(1975年3月時点)

△印旛電車基地の配線略図(1975年3月時点)

印旛電車基地の計画上の能力については,車庫建設に際して千葉県と東京都が1975年1月に締結した「印旛電車基地の建設及び管理に関する協定」に以下のように示されている。

(基地の能力)

第2条 前条の計画における車両の留置能力は,20m車・10両連結,45編成(都分18編成,県分27編成)を留置できるものとする。

2 前条の計画における車両工場の処理能力は,670両(都分400両,県分270両)を処理をできるものとする。

(東京都交通局・千葉県「印旛電車基地の建設及び管理に関する協定」)

印旛電車基地には車両の留置や日常的な検査・修繕のみならず,車両の分解を伴う大規模な検査や改造を行う工場としての機能も計画されていた。10両編成45本を留置可能な収容能力に加え,年間670両を処理できる工場機能も備える計画だった。

公団の承継と基本方針策定

印旛電車基地を含む県営鉄道の整備計画は,千葉ニュータウン事業への宅地開発公団の参画とそれに伴う県営鉄道事業の一部移譲によって見直しが図られた。県から小室・印旛松虫間の県営鉄道事業を承継した宅地開発公団は,1978年1月に県と「千葉ニュータウン鉄道の整備等に関する協定」を締結した。協定では印西草深までの段階的な開業時期について取り決められたが,印旛松虫までの開業時期や車庫の整備時期の具体的な取り決めはなかった。

宅地開発公団は1981年10月に住都公団へ改組され,改組後の1984年3月に先行開業区間である小室・千葉ニュータウン中央間が開業した。住都公団は続く公団Ⅱ期線の整備に向けて検討を始めると,1987年3月に「千葉ニュータウンⅡ期線基本方針」を定めて千葉ニュータウン中央・印旛松虫間と車庫の整備方針を固めた。

基本方針に示された住都公団線の車庫計画は,県の印旛電車基地計画を原案としながらも規模や計画面積を大きく縮小させたものとなった。県の計画では車庫の共同使用を前提として東京都交通局財産の留置線や工場が計画されていたが,県営鉄道を前提としない住都公団の車庫はこれらの施設を含めずに計画された。これにより当初計画地の南側が車庫用地から外れ,車庫計画は今日の印旛車両基地とほぼ同じ敷地に収まった。

車庫の能力は千葉ニュータウン計画の縮小を考慮した需要予測をもとに検討された。1982年9月における公団Ⅰ期線の変更認可申請では将来の10両編成化を計画に盛り込んでいたが,1986年の千葉ニュータウン計画の縮小によって将来の編成両数は8両として検討されるようになった。車庫の留置能力は県の10両編成27本から8両編成23本に,入出庫線は複線整備から単線整備に見直された。

公団Ⅱ期線基本方針策定後の印旛車両基地の配線略図(1989年3月時点)

△公団Ⅱ期線基本方針策定後の印旛車両基地の配線略図(1989年3月時点)

基本方針をもとに1989年3月には設備の基本設計が行われ,公団Ⅱ期線を3段階に分割して整備する方針が示された。各段階の内容は,まずSTEP1で千葉ニュータウン中央・印西草深間を整備して印西草深駅まで開業させると,その5年後を目途にSTEP2として車両基地の一部を暫定整備し,最後のSTEP3で印西草深・印旛松虫間と車両基地の全施設を整備して全線開業といったものだった。

基本設計では,STEP2時点で8両編成5本,STEP3で8両編成23本を収容できる車庫計画が示された。2編成を縦列に収容できる有効長の留置線9本が中央部に,列車検査線2本や月検査線1本を備えた検修庫や洗浄線2本などが終点方に配置され,事務所などは敷地の北側(山側)に計画された。また,基本方針時点で単線整備とされていた入出庫線は障害時を想定して単線並列での整備に再変更された。

北総線車両基地の完成

基本方針の固まった公団Ⅱ期線は1992年9月に工事施工認可の交付を受け,同年11月に工事着手となった。STEP1に相当する千葉ニュータウン中央・印西牧の原間は1995年4月に開業したが,車庫を含む残区間の整備については,同年1月に発生した阪神淡路大震災を踏まえて入出庫線の高架橋における耐震検討や修正設計が実施されたため,1997年度から工事が始まった。工事はSTEP2の暫定整備断面を飛ばしてSTEP3の最終形まで一気に進められ,このうち車庫の整備は公団鉄道の区間では初めて日本鉄道建設公団に全面委託された。

工事着手時点での印旛車両基地の配線略図(1998年7月時点)

△工事着手時点での印旛車両基地の配線略図(1998年7月時点)

計画変更後の印旛車両基地の配線略図(1999年9月時点)

△計画変更後の印旛車両基地の配線略図(1999年9月時点)

車庫計画は1989年の基本設計後も幾度か見直しが図られた。起点方に保守用基地が追加された一方で,留置線は南側(海側)の2本のほか中央の1本が削られて6本のみの整備となった。北側(山側)の総合事務所は留置線の削減によって空いた南側に移され,代わりに車輪転削線が北側に配置された。終点方の洗浄線や引上線も半分に削減され,留置能力は8両編成12本に絞られた。基本設計時にはSTEP3で電子連動化が盛り込まれていた連動機は継電連動装置に変更されたが,PRC装置については基本設計通りに設備された。

変更は工事着手後も重ねられ,工事着手から間もない1998年7月の日本鉄道施設協会誌には北側に車両搬入線を含む図面が掲載されている。また,印旛車両基地の総合事務所には1999年9月の車庫しゅん功時に作られた平面図が掲示されているが,これも通路線に接続するシーサスクロッシングが検修庫手前にあるなど終点方の配線が異なっている。2000年10月の運転協会誌に掲載された図面が最終的な配線略図で,とりわけ終点方を合理的な配線とすべく修正が重ねられてきた形跡を現地や図面から見ることができる。

使用開始時点での印旛車両基地の配線略図(2000年7月時点)

△使用開始時点での印旛車両基地の配線略図(2000年7月時点)

県営鉄道の車庫として計画され,北総線の車庫として整備された印旛車両基地は2000年7月22日に使用開始となった。北総線にとって計画から四半世紀を経た車庫の完成だった。千葉ニュータウンの鉄道,そして車庫をめぐる紆余曲折が形作った印旛車両基地は,北総線における車両保守の拠点として今日も安全安定輸送を支え続けている。

起点方から望む印旛車両基地の留置線(2022.12.11:印旛車両基地)

△起点方から望む印旛車両基地の留置線(2022.12.11:印旛車両基地)

主要参考文献