2015年5月17日公開・ 最終更新
北総所属車両(北総車)の運用範囲といえば,今でこそ南は羽田空港・西馬込から北は印旛日本医大までに限られているが,古くは新京成線への乗入れによる松戸・小室間での運用に始まり,路線の延伸にあわせて運用範囲が拡大の一途を辿っていた時期があった。最も運用範囲が広かった時期には,その南限は京急逗子線新逗子(現在の逗子・葉山)駅に至っていた。
ところが北総車の新逗子乗入れがあった時代において,わずか1往復の一時的なものではあるが,北総車が京急久里浜線の末端・三崎口駅に乗入れたことがあった。北総車の運用範囲における最南端の記録である。それは今から30年前――1993年5月17日,月曜日のことだった。

△三崎口行として走る7318編成(1993.05.17:三浦海岸・三崎口間)
北総車はなぜ三崎口に入線したのか
一号線新造車事情
北総車の三崎口入線は輸送障害等で突発的に生じたものではなく,計画の上で行われた。計画の目的はラジオ中継システムの現車試験だった。
ラジオ中継システムとは,乗客が客室内で安定してラジオを受信できる環境を実現するために設備される車上装置群である。車両の制御装置等から発せられるノイズによってラジオの受信が妨げられる可能性から開発されたもので,屋根上に備えたアンテナで受信した電波を受信増幅器で増幅,各車両に分配のうえ分岐増幅器を経て客室内の吊り手パイプ等に流すことによって,吊り手パイプ等がアンテナとなり客室内でも明瞭にラジオが受信できる仕組みだ。
当時の一号線各社局では,直通運転の始まった1950~1960年代に導入された車両の置き換え時期を迎えていた。各社局はこぞってインバータ制御電車を新造車として導入し,ラジオ中継システムを備えた。京浜急行でも各社局と足並みを揃えるかたちで,ラジオ中継システムを備えた新造車の導入が目下検討されていた。すでに京浜急行線にはラジオ中継システムを備えた他社局の車両が運行されていたことから,京浜急行はそれらの車両を使用して自社線沿線でのラジオ中継システムの現車試験を計画した。現車試験は日中時間帯に三崎口までの往復で計画され,その候補車両となったのが北総7300形,京成3700形,都交5300形の3形式だった。
北総車運用事情
現車試験の白羽の矢が立ったのは7300形だった。三崎口には2年前の1991年3月から京成3700形を含む京成車が定期列車として入線していたが,京成車による三崎口直通列車は夜間に設定されていたことや,車両手配の都合から試験に不適とされた。一方で北総車は三崎口までの定期列車こそなかったが,当時は日中時間帯の運用がほとんどなく,しかも京浜急行線内に留置される運用があったため,車両手配が容易であった。
遡ること2年前の1991年3月に都心直通運転を開始した北総は,直通運転の開始を機に自社所属車両をすべて8両編成としていた。ところが,1993年4月のダイヤ改正で日中の北総線直通列車における主たる運転区間がそれまでの京急川崎発着から羽田発着に変更され,6両編成までの暫定対応で開業していた羽田駅には北総車が乗入れられなくなったため,北総車の大多数が日中の活躍の場を失った。具体的には,当時平日で8両運転の車両運用には61Nから71Nまでの6運用があったが,日中は65Nと69Nの2運用が西馬込・泉岳寺間を往復するのみで,残る61N,63N,67N,71Nの4運用は車庫で留置,しかも69Nも午前中は西白井の車庫で留置されていた。当時の北総は7000形・7300形・7150形・2000形の4形式で8両編成8本と4両編成2本を擁していたが,このうち8両編成6本と4両編成1本は日中の運用がなかった。
そして,現車試験の実施を容易にしたのが71N運行に設定されていた日中時間帯の神奈川新町留置だった。71N運行は北総線初の優等列車として設定されたばかりの急行列車を担う花形運用だったが,例に漏れず日中時間帯には運用がなかった。7300形が71N運行で運用されさえすれば,この数時間を使って現車試験が可能だった。
ラジオ中継システム受信試験
こうして神奈川新町留置となる運用間合いを活用する格好で,7300形を使用した神奈川新町・三崎口間でのラジオ中継システム受信試験が1993年5月17日に実施された。
現車試験は第1071N~第1571Nの運用間合いにおいて,第1050H(特急三崎口行)~第1251H(特急青砥行)の神奈川新町・三崎口間1往復を代走することで行われ,試験車両には7318編成が使用された。
この試験から約1年後,京浜急行はラジオ中継システムを備えた600形を導入し,試験は新造車に活かされて結実した。
なお,当時の北総車といえばもっぱら普通か急行の時代であり,この日は北総車にとって初めての特急運転でもあった。