2014年2月24日公開・ 最終更新
北総線の車庫をめぐるお話。
さて,鉄道を運営するうえで車庫は欠かせない施設のひとつである。鉄道車両を収容し,留め置く場としてのみならず,日常的な保全や検査を行う場として,ときに修繕や改造を行う場として,車両に関する業務の拠点として位置づけられる。北総線では,古くは西白井駅に隣接した西白井検車区,そして今は印西牧の原と印旛日本医大の間に設けられた車両基地(印旛車両基地)が,車庫として使用されている。

△北総線の車庫・印旛車両基地(2015年3月)
現在の車庫である印旛車両基地は,2000年7月に旧・都市公団の手によって完成した。約80,000平方メートルの敷地面積を誇り,8両編成12本の留置能力に加え,列車検査や月検査に使用できる検修庫や,車輪転削設備などを備えている。敷地の一部は緑地帯として整備され,周辺環境にも配慮した近代的な車両基地だ。
ところが,印旛車両基地は当初から北総線の車庫として計画された施設ではない。本来の北総線の車庫は,別の場所に設けられる計画だった。
ニュータウン線の車庫事情
千葉ニュータウンの鉄道事情
千葉ニュータウンの鉄道事情は複雑だ。一見すれば,1本の鉄道が通っているにすぎない。しかし,列車を走らせているのは,北総鉄道と京成電鉄の2者である。しかも,その列車が走る線路や電気設備などを所有しているのは,北総鉄道と千葉ニュータウン鉄道の2者だ。
このうち印旛車両基地を所有しているのは,千葉ニュータウン鉄道である。同社は,旧・都市公団の鉄道事業撤退に伴って設立された会社で,公団の所有していた小室・印旛日本医大間の鉄道施設と車両を継承した。北総鉄道が継承しなかった理由はいくつかあるが,ここでは言及しない。いずれにせよ,千葉ニュータウン鉄道と北総鉄道は異なる法人格であり,資産は明確に区別される。すなわち,印旛車両基地は北総線の車庫ではあるが,北総鉄道の資産としての車庫ではない。
北総鉄道と千葉ニュータウン鉄道が明確に区別されるのは,その出自にある。かつて千葉ニュータウンが構想の途上にあったころ,東京都心とニュータウンを結ぶ鉄道は,異なる2つの事業者によって整備されようとしていた。ひとつは,ニュータウンの建設を主導した千葉県による千葉県営鉄道。そしてもうひとつが,千葉県を事業区域とする京成電鉄の出資による北総開発鉄道,すなわち今日の北総鉄道だった。千葉県営鉄道は,紆余曲折の末に建設が凍結されたが,一部の区間は宅地開発公団に免許を譲渡し,公団による鉄道整備が続けられた。すなわち,千葉ニュータウン鉄道の出自は,公団鉄道を経て,千葉県営鉄道に遡ることができる。
千葉県営鉄道は,東京都心とニュータウンを結ぶメインルートに位置づけられていた。本八幡を起点として,「東京10号線」の千葉県延伸を担い,ニュータウンの全域を東西に貫く計画だった。一方の北総開発鉄道は,京成高砂を起点として,「東京1号線」の千葉県延伸を担うサブルートとして位置づけられた。ニュータウン区域内では,千葉県営鉄道と並行するルートでありながら,途中の小室地区までのニュータウン西部のみを走る計画だった。両者は,それぞれが異なるルートで東京都心を目指す,別々の鉄道路線として構想された。その車庫もまた,両者がそれぞれで設ける必要があった。
ニュータウン線における車庫の設置
北総開発鉄道や千葉県営鉄道のような鉄道を「ニュータウン線」と呼ぶことがある。1972年5月,国は,ニュータウン線の建設を行おうとする鉄道事業者に対する助成措置を定めた。大蔵省,運輸省,建設省による「大都市高速鉄道の整備に対する助成措置等に関する覚書」の締結である。この覚書の締結に際して,運輸省と建設省は細目協定「ニュータウン線建設工事に対するニュータウン開発者負担の細目に関する協定」を定めた。
この細目協定は,ニュータウンを開発しようとする開発者と,ニュータウン線を建設しようとする鉄道事業者との間で,用地取得や工事費負担のあり方を定めたものである。具体的には,ニュータウン区域内における鉄道用地の取得は,ニュータウンの開発者によって行われ,粗造成の後に鉄道事業者に譲渡されることが定められている。そして,鉄道用地の確保の点において,車庫に対する負担を以下のように定めている。
(車庫に係る負担等)
第8条 ニュータウン開発者は,ニュータウン線に係る車庫のための用地をニュータウン区域内に確保するよう努めるものとする。
(運輸省鉄財第122号・建設省計宅開発第26号「ニュータウン線建設工事に対するニュータウン開発者負担の細目に関する協定」)
すなわち,北総開発鉄道と千葉県営鉄道の車庫は,千葉ニュータウン区域内に確保されたそれぞれの車庫用地に設けられるはずだった。当時,両者によって国に提出された許認可申請の書類や図面が千葉県に残っている。千葉県に残るこれらの資料によると,北総開発鉄道の車庫は小室駅の先に「小室車庫」として,千葉県営鉄道の車庫は現在の印旛車両基地にあたる位置に「印旛電車基地」として,それぞれ計画されていた。今日における北総線の車庫である印旛車両基地の出自は,千葉県営鉄道の車庫だった。そして,本来の北総線の車庫とは,小室車庫だったのだ。
小室車庫計画のあらまし
計画の顛末と現実の車庫
北総開発鉄道は,会社設立から一貫して鉄道の理想像を掲げてきた。近代的で合理的な鉄道を構築すべく,前例のない様々な挑戦を試みた。7年もの歳月をかけて,理想を具現化しようと腐心してきた北総開発鉄道は,開業に際して数多の雑誌で寄稿を重ねた。営業方針やデザインにはじまり,車両や施設の設計に至るまで,その紹介は多系統におよんだ。

△開設当時の西白井検車区に留置される7000形車両(1980年5月)
ところが,車庫や車両の検修について紹介されることは,ほとんどなかった。紹介できるだけの施設を実現できなかったからだろう。ことの顛末は,当時の北総開発鉄道の主任技術者だった黒岩源雄氏が以下のように語っている。
当社の車両基地は元来小室地区に設ける計画で,これに対する開発者負担については,線路と同様の負担をすることに県も了承済みであった。(略)しかしながら,第4駅付近のニュータウン用地取得が難航していたため,同一地区で車庫用地の買収交渉を当社が開始することに県は困惑を感じ,団地交渉を暫く待って貰いたい旨要請があって,今日に到っている。その間建設工事は進展し,開業の時期も追々迫ってきたので,暫定的な施設を設けることに意見が一致し,今日の西白井基地が誕生したものである。
(黒岩源雄「北総7000形車両の概説とその検修」『鉄道ピクトリアル』1979年8月号掲載)
黒岩氏は,小室車庫をめぐる経緯について,簡潔かつ明瞭にそのすべてを明かしていた。先の細目協定に基づいて計画していた小室車庫が,県による用地買収の難航によって凍結され,暫定の西白井検車区で手を打たざるを得なくなったというのだ。関係者としての悔しさが文面の端々から滲んでいる。

△開設当時の西白井検車区の配線略図
暫定車庫と位置づけられた西白井検車区は,2面2線分の用地をもつ千葉県営鉄道西白井駅の敷地を活用したにすぎなかった。わずかな敷地面積では車両を留め置くのが精一杯で,そこに北総開発鉄道の掲げるポリシーを十分に発揮できる環境はなかった。

△閉鎖後も工務関係の基地として活用されている旧・西白井検車区。手前の倉は検車区時代からのもの。
現役時代の西白井検車区は,つねに手狭だった。敷地は京成高砂・新鎌ヶ谷間の2期線開業を前に拡張されたが,その後の公団鉄道の延伸による車両数の増加に対しては,その留置能力はあまりに無力だった。末期には留置能力の不足から,車庫以外の使用していない線路に留め置くこともあった。合理的と呼ぶには,あまりにもかけ離れた光景だった。
小室車庫のすがた
一方の小室車庫は,いったいどれほどの車庫だったのだろうか。許認可申請に用いられた図面には,あまりに壮大な車庫のすがたが描かれている。
小室車庫の建設予定地は,小室駅の北東にある。千葉県白井市神々廻(ししば)の神崎川左岸が予定地だった。小室駅からは約1.5kmの距離にあり,神崎川を渡る入出庫線もあわせて建設される計画だった。車庫の敷地面積は約9万平方メートルで,その広さは印旛車両基地をも凌いでいる。

△北総線小室車庫の立地
広大な敷地内には,車両の留置,検修施設のみならず,工務関係の施設や,社員寮など福利厚生に関する施設まで描かれている。とくに社員寮や独身寮は,今日の北総鉄道にもない施設である。施設の充実さには目をみはるものがある。まさに北総線を支える重要拠点といった陣容だ。いわゆる「マヤ車」のような検測車を導入する計画もあったのだろうか,検測車車庫という倉にも注目である。

△小室車庫の敷地内に計画されていた各施設とその配置
そして,車庫の本質たる車両の留置や検修能力にも万全を期している様子が伺える。15本もの留置線に加え,修繕や車輪転削に用いる倉もある。いずれの線路も10両編成の運転を想定して,200m以上の長さを確保している。
当時の北総線には,10両編成を2分半間隔で運転する計画があった。小室車庫は,計画の実現にふさわしい能力が求められた。今日の北総線にはオーバースペックな能力であっても,当時の計画を実現するには必要なことだった。

△小室車庫の配線略図
もし小室車庫が実現していたならば,黒岩氏をはじめとする北総開発鉄道の面々は,自信をもって理想の車庫を紹介しただろう。しかし,彼らの前に現れたのは,構想から遠くかけ離れた西白井検車区だったのだ。その西白井検車区が,凍結されたままの小室車庫に代わって役目を果たしつづけた。いつしか小室車庫は不要な存在となり,そして,全線開業を目前とした1990年2月,西白井検車区の拡張とあわせて小室車庫計画の廃止が申請された。申請は翌3月に認可され,こうして小室車庫は北総線の計画から姿を消した。
小室車庫のいま
計画から消えて久しい小室車庫だが,今日でも未成に終わった小室車庫の存在を感じることはできる。
小室駅から印旛日本医大方面に至る北総線は,先の経緯のとおり,千葉県営鉄道として計画された区間である。北総開発鉄道と千葉県営鉄道は,新鎌ヶ谷駅から小室駅まで並行して建設される計画だったため,小室駅もそれぞれに設けられる計画だった。今日の北総線は,小室駅の先で不自然な曲線を描いて高架橋に至るが,これは別々の路線だった両者をつなぐことで生じたものである。

△入出庫線の一部は保守用車の留置線として建設された
本来の北総線の線路は,千葉県営鉄道の高架橋と並行して設けられた入出庫線の高架橋に至るはずだった。今日の高架橋は千葉県営鉄道のもので,その隣にもう一つの高架橋が計画されていた。もう一つの高架橋こそが,入出庫線の小室高架橋である。小室高架橋は車庫計画の凍結によって建設されなかったが,小室駅から小室高架橋に至る区間は保守用車の留置線として建設された。
保守用車の留置線は,成田スカイアクセス線開業に伴う小室駅の線形改良によって,本線から切り離されている。以前は本線と繋がった線路だった。計画では小室駅と小室高架橋の間には両渡り線が作られることになっていたが,こちらも実現していない。

△神崎川右岸には小室高架橋の建設予定地が確保されている
神崎川流域に広がる谷戸に下りると,北総線と国道464号の間に未利用地が広がっている。未利用地は神崎川を渡ったところで,国道464号が北総線に寄り付き,幅を狭める。この未利用地は,国道464号(北千葉道路)専用部の道路用地であるとともに,小室車庫に至る小室高架橋の建設予定地として確保された鉄道用地でもある。神崎川を渡った地点で幅が狭くなるのは,この地点で小室高架橋が北側にカーブし,国道464号をオーバーパスするからである。
小室高架橋は,国道464号と神崎川をオーバーパスすると,鎌倉橋付近で地平に下りていく。神崎川と県道189号千葉ニュータウン北環状線に挟まれた広大な谷戸が,小室車庫の建設予定地である。

△小室車庫付近は用地取得も行われず今に至っている
先に黒岩氏が述べているように,神崎川左岸から小室車庫付近に至る用地は未取得に終わっている。そこに広がっているのは,千葉ニュータウンの開発が始まる以前の谷戸のすがたであり,小室車庫によって失われるはずだった光景である。
印旛電車基地のあらまし
千葉ニュータウンの巨大車両基地として
印旛車両基地のルーツとなった千葉県営鉄道の印旛電車基地は,小室車庫よりもさらに大きな車庫として計画されていた。その敷地面積は印旛車両基地の倍以上であり,今日の印西市つくりや台の一帯がほぼ印旛電車基地の予定地に相当している。それもそのはずで,印旛電車基地は千葉県営鉄道のみならず,東京都交通局の車両基地としても位置づけられていた。すなわち,印旛電車基地は,東京10号線の共同車庫として構想されていたのだ。
東京都と千葉県は,印旛電車基地の建設に際して,1975年1月に「印旛電車基地の建設及び管理に関する協定」を締結している。協定では,印旛電車基地を共同使用するにあたり,車両基地に持たせる能力や設備,財産の帰属する範囲を定めている。なかでも基地の能力については,以下のように定められている。
(基地の能力)
第2条 前条の計画における車両の留置能力は,20m車・10両連結,45編成(都分18編成,県分27編成)を留置できるものとする。
2 前条の計画における車両工場の処理能力は,670両(都分400両,県分270両)を処理をできるものとする。
(東京都交通局・千葉県「印旛電車基地の建設及び管理に関する協定」)
印旛電車基地には,10両編成45本,すなわち450両もの留置能力を備える計画だった。そればかりか,車両の分解を伴う大規模な検査(重要部検査や全般検査)や改造を行う「工場」としての機能も計画されていた。今日の印旛車両基地と比べれば,留置能力だけで約4.5倍もある。さらに,印旛車両基地に工場の機能はなく,小室車庫にもない。印旛電車基地は,その規模もさることながら,機能の面でも大きく凌駕している。千葉県営鉄道における車両業務のすべてを司る重要な施設となったことは,言うまでもない。

△印旛電車基地の配線略図
大規模な車両基地として計画された印旛電車基地だったが,結果的に千葉県営鉄道の手で開設されることはなかった。この基地を開設したのは,千葉県から事業を継承した公団だった。しかし,公団によって開設された印旛車両基地は,公団が業務を委託する北総開発鉄道によって使用されるのみとなった。結果的に,小室車庫のような「検車」能力に特化した車庫となり,構想されていた印旛電車基地の規模からは大きく縮小した。

△印旛車両基地の配線略図
小室車庫も印旛電車基地も,千葉ニュータウンの鉄道を担う重要な施設として計画されながら,日の目を見ることはなかった。それは,千葉ニュータウンの計画規模が当時の半分にまで縮小し,構想の前提にあった需要が失われたことが,こうした車庫の必要性をも奪っていったからだ。そして,千葉ニュータウンの鉄道が,紆余曲折の末に複雑な事情を抱えてしまったことも,これら車庫の実現性を大きく遠ざけてしまった。千葉ニュータウンとその鉄道の歴史のなかには,忘れ去られていった数多の計画が埋もれている。