北総線・北千葉線のあゆみ

2012年5月14日公開・ 最終更新

青字の項目は解説付きなので適宜クリックされたし。

千葉ニュータウン計画から北総線の開業まで

1960年代
1965
8月千葉県:県土木部「新都市計画」で北千葉に新住宅都市構想
9月22日千葉県:北千葉含む新住宅都市構想を政府と調整
1966
1月千葉県:千葉北部NT建設のため開発局に宅地開発準備室を設置
5月10日千葉県:千葉ニュータウン基本構想及び鉄道新線の発表

日本の高度経済成長とともに首都圏の人口は増加の一途をたどり,東京,神奈川,埼玉に続く格好で千葉県においても昭和35年頃から社会的な人口増加が顕著となった。県下では都市の乱開発によってスプロールが進行し,良好な住環境の整備は都市計画上の急務となっていた。
1963年4月に千葉県知事となった友納武人は,積極的な社会基盤の整備によって県下の工業化促進と雇用創出を目指し,経済基盤が弱い農業県であった千葉県を開発県政で強力に発展させようとした。しかも,1964年に発足した佐藤栄作内閣も開発路線にあったことから,県のみで行えない大規模な社会開発を国の支援によって行おうと画策した。
そして,友納は1965年に土木部に対して新住宅都市(ニュータウン)開発の候補地選定を特命し,印西や北千葉地域がその一つとして選定された。県営ニュータウンの開発に向けて県は準備を進め,1966年5月に計画人口34万人の巨大内陸ニュータウン「千葉ニュータウン」構想が公表された。さらに,県はニュータウンの足として鉄道敷設を計画し,ニュータウンを東西に貫き,新京成線初富駅に至る鉄道新線の構想を明らかにした。今日の北総線はこの構想に端を発している。

1967
2月千葉県:千葉ニュータウン事業用地取得を開始
11月千葉県:「千葉ニュータウン鉄道基本計画調査報告書」まとめる

来たる千葉ニュータウン鉄道新線の建設に向けて県は収支や輸送力を踏まえたルートの検討を行うべく,1967年11月に「千葉ニュータウン鉄道基本計画調査報告書」をまとめた。
千葉ニュータウン開発計画にあわせてニュータウン内に8駅を設ける方針は,後の計画縮小によって谷田地区と天王前地区の駅が凍結されたものの,今日における北総線の駅設置計画の原型となったものである。また,ニュータウン区間外においては,初富駅や元山駅から新京成線に乗り入れる案,東武野田線との交差地点に粟野駅を設け,新船橋から西船橋までの新線を建設して東武野田線経由で東西線に乗り入れる案,西船橋までの新線を建設する案が比較衡量された。
かくして県の鉄道新線構想は,輸送力の確保を目的としてニュータウン区間外にも新線を建設して地下鉄に乗り入れる方針となったが,こうした県の動きを踏まえて東京都が10号線(後の新宿線)の延伸乗入れを提案したことで,そのルートは10号線乗入れを前提としたものとなっていった。

千葉ニュータウン用地取得説明に用いられたパンフレット(1966年)

△千葉ニュータウン用地取得説明に用いられたパンフレット(1966年・石井様提供)

鉄道新線の検討ルート

△鉄道新線の検討ルート

小室地区の造成開始を知らせるチラシ(1970年・石井様提供)

△小室地区の造成開始を知らせるチラシ(1970年・石井様提供)

1970年代
1972
2月10日千葉県:鉄道問題懇談会による鉄道計画の公表

千葉ニュータウンにおける鉄道新線は千葉県自らによって運営される予定であったが,この県営鉄道構想を快く思わなかったのが京成電鉄だった。千葉県を営業基盤とする京成電鉄としては,30万都市・千葉ニュータウンは自らの営業基盤であり,京成電鉄が事業参入して然るべきと考えていた。かつて県知事の友納と京成電鉄社長の川崎千春は親しい仲であったとされるが,友納は県営鉄道計画を譲らず,両者の激しい対立を生んだ。
そして1971年に京成電鉄は千葉ニュータウンにおける鉄道事業参入の意思を明らかにしたが,県は鉄道問題懇談会に問題解決を委嘱した。懇談会で議論された千葉ニュータウンの鉄道新線のあり方とは,先行する40万都市・多摩ニュータウンにおいて小田急と京王帝都の2社が鉄道新線を設けたので,これに比例させて30万都市・千葉ニュータウンでは1.5本分の鉄道新線を設けるというものだった。すなわち,住宅が主体となる西側の1駅~3駅は京成と県がそれぞれに鉄道を敷き,中心地区や工業地区の4駅~8駅は県営鉄道のみとしたのだ。そして,その整備はニュータウンの開発段階にあわせて行い,人口の少ない開発初期においては京成と県が分担して1本の鉄道を担うことで需要にあった輸送力を確保し,人口増加とともに都心直結の新線としてそれぞれが運営する計画とした。

3月1日運輸省:都市交通審議会答申第15号

郊外住宅地の拡大と開発を踏まえ,東京50km圏内の郊外ニュータウンを答申区間に含めた13路線が1985年度を目標年次として答申された。
千葉ニュータウンについては,先の鉄道問題懇談会の結論を踏まえて,押上方面から青砥,高砂,大町付近を経由して小室に至る東京1号線と,東大島,本八幡,小室を経由して印旛に至る東京10号線の2ルートが盛り込まれた。
なお,県営鉄道の整備が予定されていた成田ニュータウンは東京50km圏外のため,県営鉄道の印旛松虫・成田間は答申路線網から除外された。

4月28日北総:北総開発鉄道株式会社創立総会
5月10日北総:北総開発鉄道株式会社設立

答申された東京1号線ルートにおける鉄道事業の運営と沿線開発を目的として,京成電鉄を母体とする北総開発鉄道株式会社が東京都押上の地に設立。本店は押上にあった京成電鉄本社内に置かれ(墨田区押上1-10-3),その近傍にあるビル内に事業所が設けられた(墨田区業平2-14-5)。
社名は鉄道と不動産の両輪による会社運営を意識したもので,英社名は「Hokuso Rapid Railway」とされた。なかでも不動産部門は,全線開業後の黒字化に年月を要する想定を踏まえたもので,Ⅱ期線沿線の区画整理事業による開発を目的としていた。鉄道部門には京成電鉄,不動産部門には京成電鉄傍系の京成不動産が関与し,京成電鉄と京成不動産それぞれから役員が送り込まれた。
会社設立当初の資本金は20億円で,その出資比率は京成電鉄38%,傍系企業2%,金融機関60%であり,純粋な民間企業に過ぎなかった。
なお,会社設立日とは別に創立総会のあった4月28日が北総開発鉄道の創立日とされている。

7月11日千葉県:県営鉄道(本八幡・成田間)事業化を採択

千葉ニュータウンにおける鉄道新線の事業化に向けて,東京10号線ルートを担う千葉県もさっそく動き出した。東京1号線ルートを担う北総開発鉄道の設立に続き,6月の定例県議会に県営鉄道の事業化に係る議案が付議されたのである。ただし県は答申路線網から外れた印旛松虫・成田間を事業化の範囲に含めて付議し,議会もこれを採択。県営鉄道事業がここに始まった。

7月千葉県:地方鉄道敷設免許申請(本八幡・成田間)
8月7日北総:地方鉄道敷設免許申請(京成高砂・小室間)

創立まもない1972年5月,来る新線建設に向けての会議が北総社内で始まった。5月15日には鉄道設計に関する会議「鉄道プロジェクト会議」が発足し,同月24日には新線に求める理想像に対する自由討議が行われた。立体交差などの安全対策や,定時性の確保,勾配や曲線を極力排した高速運転の実現,ロングレールや防音壁による騒音や振動への公害対策,CTCや自動券売機を活用した省力化など,今日の北総線の礎はここに生まれた。
こうした検討を経た北総は,同年8月に京成高砂・小室間の地方鉄道敷設免許を申請。翌9月には用地対策を検討する「用地プロジェクト会議」が始まるなど,建設に向けた準備を着実に進めていった。
当初は千葉ニュータウンの開発規模と入居時期を踏まえて,Ⅰ期線を1974年度内,Ⅱ期線を1978年度内に開業する計画であった。また,千葉ニュータウンの開発規模の大きさゆえに「千葉ニュータウンの足」としての運営に比重が置かれ,最大10両編成・5分間隔の運転を計画する一方で,Ⅱ期線区間の途中駅はわずか4駅(現在の矢切,秋山,東松戸,大町に相当)に留められていた。また,運賃は1区2kmまで50円の予定で,最新鋭の鉄道として既設線の運賃よりも若干高い水準で計画されていた。

8月北総・千葉県:地元説明会を開始

両鉄道の通過する自治体及びその住民らにとって,鉄道新線の敷設は大きな関心を集めた。
鎌倉地区の区画整理事業を終えたばかりであった葛飾区内では,計画発表直後から住環境の悪化を懸念した住民らによる高架建設反対運動が起こり,1974年には葛飾区議会で高架建設反対の議案が採択されるに至った。騒音や振動による環境悪化を懸念した住民らによる運動は葛飾区以外でも起こり,1973年には鎌ケ谷市内に「鎌ケ谷地域鉄道問題対策連絡協議会」が発足,1974年10月には鎌ケ谷市も地下方式での新線建設を北総に求めた。北総は,いずれも地下方式では勾配などの線路条件が満たせず技術上困難であると回答したが,葛飾区では「技術上困難」の回答に対して技術論争となり,「北総鉄道問題」として係争が長期化することになった。
千葉県営鉄道においては,成田までの計画線に対して成田新幹線との関連性を疑う声などもあり,地元説明会では強い反対意見も出た。とくに鎌ケ谷市内においては説明会が流会となるほどの状況であった。
その一方で,地元からは両線ともに早期開通を期待する声も上がり,新駅の誘致や都市計画の策定に一丸となって取り組む地域もあった。

鎌ケ谷市内で行われた説明会(1973年・石井様提供)

△鎌ケ谷市内で行われた説明会(1973年・石井様提供)

「北総鉄道問題」に関するチラシ(1973年・石井様提供)

△「北総鉄道問題」に関するチラシ(1973年・石井様提供)

11月1日千葉県:開発庁新都市開発局内に鉄道建設課を設置
1973
2月26日千葉県・東京都:相互直通運転に関する覚書を締結
2月27日千葉県:地方鉄道敷設免許再申請(本八幡・成田間)

千葉県は県営鉄道の事業化を受けてさっそく1972年7月に本八幡・成田間の地方鉄道敷設免許を申請するが,運輸省は答申対象外の印旛松虫・成田間への免許に難色を示し,事業計画の施行区分に基づきⅠ期~Ⅲ期の別に免許申請を行うことを指示した。これを受けて,県は1973年2月に地方鉄道敷設免許を施行区間別に分割して再申請した。

4月1日千葉県:鉄道管理課及び鉄道建設事務所を設置
県営鉄道パンフレット(1973年・石井様提供)

△県営鉄道パンフレット(1973年・石井様提供)

5月31日北総・千葉県:相互直通運転に関する覚書を締結
6月6日北総・新京成:相互直通運転に関する覚書を締結
6月20日千葉県・東京都・京王:相互直通運転に関する覚書を締結
10月4日運輸省:地方鉄道敷設免許(本八幡・印旛松虫間)

北総開発鉄道の敷設免許と同日付で千葉県も本八幡・印旛松虫間の敷設免許を取得。しかし,申請していた印旛松虫・成田間の県営Ⅲ期線については答申路線網に含まれていないことから免許が与えられなかった。
免許線に対する工事施行認可申請期限は北総と同じく1975年4月であった。

10月4日運輸省:地方鉄道敷設免許(京成高砂・小室間)

北総線の鉄道敷設は県営鉄道と同日となる1973年10月4日に免許された。免許線に対する工事施行認可申請期限は県営鉄道と同じ1975年4月であった。

10月11日北総:工事施行認可申請(北総Ⅰ期線)
11月1日千葉県:第一次分割工事施行認可申請(県営Ⅰ期線)
11月10日運輸省:工事施行認可(北総Ⅰ期線)
11月12日北総:Ⅰ期線を鉄建公団対象工事とするよう運輸省に申請
11月16日千葉県:開発庁に鉄道部を新設し既存組織を鉄道部に配置
12月運輸省:鉄建公団に対し北総Ⅰ期線の工事実施計画指示
1974
1月25日千葉県:第二次分割工事施行認可申請(県営Ⅰ期線)
2月1日北総・鉄建公団:北総Ⅰ期線建設に係る工事施行協定を締結

日本鉄道建設公団(鉄建公団)は,新線建設や複々線化等の既設線に対する大規模工事を行おうとする鉄道事業者に対して,必要資金を調達して建設工事を施行し,完成した鉄道施設を鉄道事業者に譲渡することを業務とした組織である。1964年の発足当初は国鉄に対する組織であったが,1972年6月に根拠法である日本鉄道建設公団法が改正され,これによって民鉄線工事についても鉄建公団の対象工事とすることが可能となった。
鉄建公団の民鉄線工事は,ニュータウン線建設工事や既設線の輸送力増強,地下鉄乗入れに関する工事を念頭としたもので,いわゆる「P線方式」と呼ばれる整備方式がとられた。これは,譲渡後の建設費償還を25年元利均等償還として,借入金利率が5%を上回る分については25年(ニュータウン線は15年)の利子補給を行うというものであった。
1973年11月に工事施行認可を受けた北総Ⅰ期線(北初富・小室間)は,認可直後に鉄建公団対象工事としたい旨の申請が行われ,運輸大臣は翌12月に鉄建公団に対して工事実施計画の指示を行った。翌1974年2月には施行協定が北総・鉄建公団間で締結され,鉄建公団民鉄線工事としての工事施行が決定した。鉄建公団の民鉄線工事は,このほか千葉急行電鉄や東葉高速鉄道,北神急行電鉄などで適用されたが,このうち北総Ⅰ期線(北初富・小室間)への適用は1972年6月の法改正後初めての事例であり,すなわち北総線は鉄建公団民鉄線工事の第一号であった。

3月27日千葉県:ニュータウン開発者負担に関する協定を締結
3月27日北総・千葉県:ニュータウン開発者負担に関する協定を締結
4月1日千葉県:開発庁内の鉄道関係部門の独立で鉄道局が発足
北総線の地元説明に用いられたパンフレット(1974年・石井様提供)

△北総線の地元説明に用いられたパンフレット(1974年・石井様提供)

6月1日運輸省:第一次分割工事施行認可(県営Ⅰ期線)
7月26日運輸省:第二次分割工事施行認可(県営Ⅰ期線)
10月1日千葉県:鉄道局に用地課を設置
10月千葉県:県営鉄道の路線名称を「北千葉線」に決定
12月20日北総:北総Ⅰ期線起工式

北総Ⅰ期線(北初富・小室間)の用地取得は,ニュータウン区間内においては開発者である県が取得を行う一方で,ニュータウン区間外においては独自に用地を取得する必要があった。北総は鎌ケ谷変電所用地を皮切りに1974年度から用地取得を開始し,年末には取得率が75%を超えたことから,土木工事への着手を前に起工式を行った。
起工式の会場となったのは,北総線に隣接する鎌ケ谷市制記念公園の一角。当時は近隣に駅すらなかったことから,国鉄西船橋駅からの送迎バスが運行された。なお,修祓式は道野辺八幡宮の宮司によって行われたが,以来,道野辺八幡宮と北総は祈願や式典において重要な関係にある。
北総Ⅰ期線(北初富・小室間)の工事施行に際しては,用地取得の遅れていたニュータウン区間を後回しに,まずは北初富駅から粟野山トンネル付近のニュータウン境までの区間で土木工事に着手した。完成予定は1976年度末とされていたが,1975年度には早々に1977年5月と後ろ倒しされている。建設工事の様子は当時の京成電鉄の広報誌『京成ライン』誌面を通じて適宜紹介された。

鎌ケ谷市制記念公園で行われた起工式(1974年・石井様提供)

△鎌ケ谷市制記念公園で行われた起工式(1974年・石井様提供)

1975
2月10日千葉県:県営Ⅰ期線起工式

北総開発鉄道に続いて千葉県営鉄道もⅠ期線の着工を迎えた。起工式の会場は小室駅付近で,千葉市内の千葉県文化会館でも祝賀式典が行われた。
県営Ⅰ期線(小室・千葉ニュータウン中央間)は,千葉ニュータウンのセンター地区である千葉ニュータウン中央駅圏の街開きに合わせた開業が予定されていた。千葉ニュータウンの計画入居ペースを踏まえて街開き当初の鉄道整備は1路線相当とし,すなわちそれぞれのⅡ期線開業までは県営及び北総で一体となった直通運転を実施する計画であったから,県営Ⅰ期線(小室・千葉ニュータウン中央間)の開業予定とは北総Ⅰ期線(北初富・小室間)の開業時期に等しかった。
したがって,県営Ⅰ期線(小室・千葉ニュータウン中央間)は1976年度末の開業を目指して工事に着手したが,用地取得率は1974年6月時点で6割に留まっていた。とりわけ,谷田・千葉ニュータウン中央間におけるゴルフ場や谷田駅周辺の用地取得は難航し,これらの課題は宅地開発公団への事業継承後も路線の開業予定を遅らせる要因となった。
県営Ⅰ期線(小室・千葉ニュータウン中央間)の工事施行は,1974年度に小室地区で最初の工事に着手し,翌1975年度には千葉ニュータウン中央駅の基礎工事及び法目変電所の建設工事に着手,1976年度には小室高架橋の建設工事を行っている。この区間が開業するのは公団への事業譲渡後であったが,県営鉄道時代に施工された鉄道施設においては千葉県の銘板が今も残存している。

県営鉄道時代にしゅん功した小室架道橋の銘板

△県営鉄道時代にしゅん功した小室架道橋の銘板

3月18日千葉県:第一次分割工事施行認可申請(県営Ⅱ期線)
3月28日千葉県:第二次分割工事施行認可申請(県営Ⅱ期線)
4月13日千葉県:千葉県知事に川上紀一が当選

1975年4月の統一地方選は,3期続いた友納県政からの転換となる選挙だった。前知事の友納は4選出馬こそしなかったものの,自身の県政路線を踏襲する候補を擁立して開発県政の継続を目指したが,副知事であった川上が農工両立を訴えて友納派を破り,川上県政が幕を開けた。
川上は友納の開発県政路線からの転換を目指して予算・人事の両面で既存路線からの脱却を進めた。千葉ニュータウン事業の見直しや開発県政を支えた職員らの更迭によって,千葉県政は大きな転換期を迎える。

9月1日公団:宅地開発公団が発足

田中角栄内閣のもと1975年9月に発足した宅地開発公団は,日本住宅公団と並ぶ住環境の整備に関する公団である。戦後の住宅不足の中で住宅供給を手掛けた日本住宅公団との違いは,その名の通り「宅地開発」のための公団であったことで,すなわち住宅建設ではなく大規模ニュータウンの造成に特化した組織であった。
300ha以上の大規模な宅地開発を対象としていた宅地開発公団のもう一つの特徴は,建設省組織でありながらも地方鉄道法に基づく鉄道事業の運営を可能としていたことであった。根拠法である宅地開発公団法に鉄道事業を盛り込んだのは,過去の大規模ニュータウン開発における鉄道整備をめぐる運輸省と建設省の軋轢にあったが,宅地開発公団や建設省の中には公団に鉄道事業の実績を求める声も少なくなかったという。
一方の千葉県では,宅地開発公団の設立準備段階にあった1974年頃から行き詰まる千葉ニュータウンと県営鉄道の事業委譲を検討し始めていた。1974年1月には友納知事が委譲を示唆する発言をしたばかりか,同年7月には非公式にその意向を伝えていたという。そして,川上県政においては方針転換の受け皿として期待され,1975年9月から千葉ニュータウン及び県営鉄道事業の公団委譲に向けた動きが検討され始めた。

1976
3月北総:「営業プロジェクト会議」発足し営業方針検討に着手

営業に関する検討委員会「営業プロジェクト会議」が1976年3月に発足した。機械による合理的な鉄道を目指した北総にとって,駅業務の機械化は重要な検討項目のひとつであり,自動券売機による出札業務の機械化はもちろんのこと,当時はまだ珍しかった自動改札機による改札・集札業務の機械化を図ったばかりか,精算業務も「きっぷ交換・精算機」によって機械化を試みた。これは,利用者が台の上に置いた乗車券の券面をカメラで撮影し,その映像をセンター「精算指令」で読んで精算金額を利用者に伝え,精算券を発券するという仕組みで,富士電機と共同開発した独創的なシステムだった。
このほかにも,階段の仕切壁の一部を取り払うことでコンコースに降りる前に券売機までの動線を利用者が意識できるようにするなど,会議では様々な検討が重ねられていった。会議の大きな成果であった「駅務自動化システム」は開業当初の目玉のひとつとなったが,今日ほど機械化されていなかった時代ゆえに開業当初は機器の使用方などを記した小冊子を利用者に配布して周知に努めることになった。しかし,半ば行き過ぎた機械化として利用者の評判は決して良くなく,「きっぷ交換・精算機」は数年で運用を停止したばかりか,発売金額ごとに分けた自動券売機も遊休状態の機器が増えて故障に悩まされた結果,こちらも数年で置き換えとなった。また,機械化の方針についても後のⅡ期線では利用状況に応じて段階的に行う方針に転換されている。

駅務自動化に関するパンフレット「駅務システム」(1979年)

△駅務自動化に関するパンフレット「駅務システム」(1979年)

8月北総:川上県知事に県営鉄道事業の中止と北総への出資を提案
建設中の千葉ニュータウン清水口団地(1977年・石井様提供)

△建設中の千葉ニュータウン清水口団地(1977年・石井様提供)

営業機器の使用方を案内する小冊子(1979年)

△営業機器の使用方を案内する小冊子(1979年)

10月北総:「車両専門家会議」発足し車両構想に着手

営業プロジェクト会議に続き,1976年10月には車両の方針に関する検討委員会「車両専門家会議」が発足した。北総の理想を体現せんと車両設計を率いたのが,会社設立当初から主任技術者として携わってきた黒岩源雄専務であった。国鉄出身の黒岩専務は鷹取工場の工場長を歴任するなど車両分野に造詣が深かった。
車両専門家会議での討議を経て,翌1977年7月には車両メーカを含めた「車両設計会議」が発足し,車両に関する検討は深度化していった。後に鉄道友の会からローレル賞を受賞する7000形の独創的な設計は約2年に及んだこれらの会議で決定したものである。「ゲンコツ電車」の由来にもなった前面形状の検討に際しては,「良好な前方視界」や「地上からの識別性」など様々な条件を踏まえて10種類の形状案が作成され,更にそれら形状案から13種類もの透視図が作られて検討された。このほかにも,カラーフィルムの採用による塗装設備の省略,空調装置の能力向上による大型かつ完全固定窓の実現,熱線吸収ガラス採用によるカーテンの廃止,つり革の廃止や握り棒形状の工夫による車内見通しの確保など,会議を通して採用された独創的な設計思想は枚挙にいとまがない。

前面形状検討時の各案イメージ

△前面形状検討時の各案イメージ

1977
3月23日千葉県:県営鉄道事業の中止と北総への出資の方針を固める
4月1日千葉県:鉄道局を廃止し企業庁に統合
4月29日千葉県:北総開発鉄道に2億円を出資
  • 増資後の資本金:22億円
4月29日北総:千葉県の資本参加及び役員を受け入れ

北総開発鉄道と千葉県営鉄道は,官民が競合し互いに切磋琢磨しながら開業に向けて準備を進めてきたところであった。
ところが,川上県政への転換を経た1976年8月,当時の梶本北総開発鉄道副社長と川上県知事が会談し,県営鉄道事業の中止と北総開発鉄道への出資を提案した。川上は鉄道運営の知見に乏しい県が自ら鉄道事業を行うべきではないと公言していたこともあり,1977年度予算において梶本の提案を受け入れた。そして,この日北総開発鉄道に2億円を出資し,県の前千葉ニュータウン事業部長を北総開発鉄道に役員として送り込んだ。
かくして純粋な民間企業だった北総開発鉄道は,自治体の資本参加による官民共同の第三セクター的性質を帯びていくことになる。

7月北総:「車両設計会議」発足し車両設計に着手
8月北総:「デザインポリシー検討委員会」発足

清新な鉄道を目指した北総は,駅から車両に至るまで統一的なデザインポリシーを定めるべく「デザインポリシー検討委員会」を発足させた。営団地下鉄のサインシステムなどを手掛けた黎デザイン総合計画研究所をメンバーに加え,神戸市営地下鉄や横浜市営地下鉄などで先行していたデザインポリシーを参考に幾度もの議論を重ねていった。
たとえば「ナール」と「ヘルベチカ」の写植書体で再現性と識別性を確保した文字は,サインシステムから車両の番号表示まで幅広く用いられ,今日も北総線の標準となっている。このほかにも「入口に緑,出口に黄色」の約束色を用いたり,駅ごとに異なる「駅カラー」を設定したり,どの方向からも駅名が読める駅名標を作ってその表示高さを客車内からでも見える高さとしたり…デザインポリシー検討委員会の成果は枚挙にいとまがない。その成果は後に一冊の本として纏められるとともに,1980年7月に日本サインデザイン協会から第14回SDA賞を贈られている。

開業当初のサインシステム

△開業当初のサインシステム

土木工事中の新鎌ヶ谷・西白井間(1977年・石井様提供)

△土木工事中の新鎌ヶ谷・西白井間(1977年・石井様提供)

10月17日北総:工事施行認可の延長申請(北総Ⅱ期線)
10月31日運輸省:工事施行認可の延長認可(北総Ⅱ期線)
  • 期限:1979年度末まで
11月16日運輸省:宅地開発公団への県営鉄道事業の一部譲渡について合意

宅地開発公団に県営鉄道事業を譲渡する千葉県の方針は,とうてい運輸省に受け入れられるものではなかった。そもそも千葉ニュータウンにおける鉄道事業の参入を切望してきたのは他ならぬ県であったが,それを数年で覆したあげく,その譲渡先が建設省系の宅地開発公団であるというのが,運輸省の感情を逆撫でしたのだ。
運輸省,千葉県,宅地開発公団の3者は事業譲渡に関する協議を重ね,県の免許線の約半分にあたる小室・印旛松虫間を譲渡することで1977年11月に合意に達し,県営鉄道事業の中止が決定的となった。

11月16日運輸省:「成田新高速鉄道構想(田村構想)」の提案

県営鉄道事業の譲渡に関する三者合意の日,その同日に公表されたのが「成田新高速鉄道構想」であった。
成田新高速鉄道構想は,整備が遅れていた千葉ニュータウンの鉄道新線と新東京国際空港のアクセス鉄道の両方を解決する画期的な新線構想であった。その計画線は東京から越中島,押上,京成高砂,新鎌ヶ谷,印旛松虫を経て成田空港に至るもので,営団8号線,京成押上線,北総線,県営鉄道(宅地開発公団鉄道)と成田新幹線の各線を接続するものとされた。北総開発鉄道にとっては,千葉ニュータウンの足である北総線に空港アクセス鉄道としての将来性が期待される契機となった出来事だった。
当時の運輸相・田村 元にちなんで「田村構想」とも呼ばれるこの構想は,発表直後の11月28日に関係事業者の実務者級を集めた「成田空港東京間高速鉄道準備会」が運輸省の呼びかけで発足。翌年には都や空港公団を含めた「成田新高速鉄道協議会」の発足に向けた準備が重ねられ,4月に協議会の発足に至った。

11月28日運輸省:成田空港東京駅間高速鉄道準備会が発足
粟野山トンネル(1977年・石井様提供)

△粟野山トンネル(1977年・石井様提供)

船取県道を跨ぐ北総線の架道橋(1977年・石井様提供)

△船取県道を跨ぐ北総線の架道橋(1977年・石井様提供)

12月千葉県:県営鉄道事業の一部譲渡に関する議案を採択
1978
1月20日千葉県・宅地開発公団:県営鉄道の一部譲渡に関する協定を締結
  • 小室・NT中央間:1980年4月単線開業・1983年4月複線化
  • NT中央・印西草深間:1984年4月単線開業・1987年4月複線化
  • 印西草深・印旛松虫間:1986年4月単線開業(要協議)
4月4日運輸省:成田新高速鉄道協議会が発足
4月7日千葉県:県営鉄道事業を凍結
入居募集が始まった千葉ニュータウン(1978年)

△入居募集が始まった千葉ニュータウンの広告(1978年・石井様提供)

製造中の7000形車両(1978年)

△製造中の7000形車両(1978年)

北柏駅に到着した7000形車両(1978年)

△北柏駅に到着した7000形車両(1978年)

11月北総:7000形電車の搬入開始

開業準備も佳境となった1978年の暮れ, 丸2年以上の検討を経た待望の新型車両・7000形が西白井検車区に搬入され始めた。会社設立時から主任技術者として検討に携わってきた黒岩源雄専務は,当時の出来事をこのように述懐している。
「新設計の電車が、仮車庫で整備を終えてはじめて本線上に徐行で姿を現わした時に、 線路横で棚垣を結っていた建設会社の下請けの作業者の中から期せずして“万才”の声が湧き起こったときは、 工事に関係した1人1人がこの鉄道にかけた夢を肌で感じられ、 終生忘れえないシーンであった。」 (『鉄道におけるトータル・デザイン・ポリシー ――北総開発鉄道における具体的展開――』より)
このほかにも,黎明期の北総に対する鉄道マンたちのエピソードは事欠かず, この年の2月には当時のポリシーを歌った「北総開発鉄道の歌」が社員らによって作られている。

  • 7002編成:1979年1月10日新製(川重)
  • 7004編成:1979年2月8日新製(日車)
  • 7006編成:1979年1月10日新製(東急)
12月21日東京都:新宿線開業(岩本町・東大島間)
1979
2月6日北総:運賃及び料金の上限の認可申請
  • 初乗り1区3kmまで110円(以降2kmごとに30円加算)
  • 割引率:通勤定期30%,通学定期50%
習熟運転で椚山基地に入った7000形(1979年)

△習熟運転で椚山基地に入った7000形(1979年)

開業前の運輸指令卓(1979年・石井様提供)

△開業前の運輸指令卓(1979年・石井様提供)

開業前の新鎌ヶ谷信号所と7000形電車(1979年)

△開業前の新鎌ヶ谷信号所と7000形電車(1979年)

3月8日北総:北総Ⅰ期線開業記念式典(小室駅)
3月9日北総:北総Ⅰ期線開業(北初富・小室間)

工事着手から約4年の歳月を経て,北総線最初の区間となるⅠ期線北初富・小室間7.9kmが開業。千葉ニュータウンの足として,同日より新京成線松戸駅までの相互直通運転を開始した。
千葉ニュータウンの街開きは当初計画から大きく遅れ,北総線の開業から数日後の3月13日に西白井と小室地区で最初の街開きが行われた。街開きと同時に鉄道を開業させたのは,街開きが先と考える北総と,鉄道が先と考える県の間で「鶏が先か卵が先か」の議論が幾度となく交わされた結論だという。しかし,白井地区は遅れること8月に街開きとなり,すなわち白井駅は開業から5ヶ月も無人の街で営業を強いられた。この間の白井駅は一部時間帯で無人営業としていたが,他の駅でも入居ペースが計画を下回るなど北総にとって苦労の日々が続いた。
また,北総Ⅰ期線と同時開業予定だった小室・千葉ニュータウン中央間の県営Ⅰ期線は用地収用の長期化などから開業が間に合わず,北総線においても小室地区に設置予定だった車両基地の用地収用ができず西白井に暫定車庫を設けるなど,千葉ニュータウンの開発に大きく左右されての開業となった。

  • No.1ダイヤ
  • 新京成線との相互直通運転を開始(松戸・北初富間乗入れ)
  • 7000形電車営業運転開始
西白井・白井間を走る新京成200形(1979年)

△西白井・白井間を走る新京成200形(1979年)

開業直後の小室駅(1979年)

△開業直後の小室駅(1979年)