ダイヤ番号にみる北総線ダイヤの歴史

2015年3月1日公開・ 最終更新

北総線ダイヤの付番法則

付番法則を知る

列車が自己と他己を区別するための名前として列車番号をもっているのと同じように,ダイヤにも自己を示す名前としてのダイヤ番号が設定されている。

北総線における2020年7月時点のダイヤ番号は,No.117-5である。ダイヤには,改正や修正があるたびに新たな番号が与えられる。しかし,ひとえにNo.117-5といっても,これまで117回のダイヤ改正が行われたというわけではない。この番号は,以下の要領で与えられたものである。

この付番法則は,京成電鉄のそれを踏襲したものである。基準となるNo.101ダイヤを1991年3月改正に設定しているのは北総の都合だが,その理由は,北総が全線開業し,京成線との直通運転を開始したダイヤが1991年3月改正だったからだ。京成はずっと以前から上の要領でダイヤ番号をつけていたので,法則こそ同じでも,ダイヤ番号は両社で異なっている。

松戸直通時代のダイヤと幻の公団ダイヤ

では,1991年3月改正以前のダイヤ番号はどうだっただろうか。

この当時の北総線ダイヤには,No.1から始まるダイヤ番号が与えられていた。No.1を名乗るダイヤは,1979年3月の北総線開業時に遡る。当時のダイヤは,新京成電鉄で制作したダイヤをベースとして,社名やダイヤ番号など必要最低限の箇所を書き換えて制作されていた。体裁は新京成のダイヤと同一で,付番法則も同じだった。新京成の影響は列車番号の付番法則にも現れていた。松戸直通の時代には,運転系統別に番台区分した列車番号を与えていたのだ。

1991年3月の第2期開業まで,北総線のダイヤ改定はすべて「改正」だった。ダイヤ番号は順に繰り上がるのみだったが,平日と休日で別々に番号管理していたため,平日は改正で番号を改めても,休日は従来の番号を踏襲する,ということもあった。

1984年3月には,小室・千葉ニュータウン中央間で公団線が開業。当時から公団は運転や保守業務を北総に委託していたが,今日のように第三種鉄道事業という枠組みが整備される以前には,公団鉄道の名義であらゆる業務を行っていた。当時の乗車券類に公団の名前が印字されていたように,ダイヤも公団仕様が存在していた。公団仕様のダイヤは,北総仕様のダイヤと同じく,新京成制作のダイヤをベースとして,社名やダイヤ番号を書き換えたものだった。すなわち,ひとつのダイヤに対して,新京成と北総,公団の3種類の社名違いのダイヤが作られていた。

公団仕様のダイヤは,1984年3月改正をNo.1としたもので,ごく少数のみ作られたようである。これらは北総と違って市場に出回ることもなく,まさに幻のダイヤとして存在していた。鉄道事業法の施行で公団鉄道が第三種鉄道事業者となった際に,公団仕様のダイヤは制作を取りやめている。以降は北総仕様のダイヤに統合され,北総2期線開業の日を迎えることになる。

複数のダイヤを併用した都心直通時代の幕開け

悲願の全線開業を果たした北総線は,1991年3月改正で都心直通運転を開始した。都心直通運転の開始と同時に,これまでの新京成制作ダイヤに代わるダイヤが必要となった。なぜなら,新京成の制作したダイヤには,松戸・京成津田沼間と北初富・千葉ニュータウン中央間しか記載されていなかったからだ。すなわち,京成線方面のダイヤが必要になったのである。

そこで,これまでのスキームを踏襲するかたちで,今度は京成電鉄の制作したダイヤをベースとした北総仕様のダイヤが作られた。これが,今日における基準となるNo.101ダイヤである。記載される範囲は,京成電鉄のそれと同じく,京成線と都営浅草線,北総線の全線と,京急線品川・泉岳寺間とされた。

この当時には松戸直通列車の運転が残っていたが,新京成線方面はNo.101ダイヤで捕捉できないため,これまで同様に新京成制作ダイヤの北総仕様も制作された。このときの新京成制作ダイヤの範囲には,北総2期線が反映されて,高砂・新鎌ヶ谷間も含まれるようになった。このダイヤには,2期開業以前のダイヤ番号の続番が与えられ,No.7となった。

こうして,京成様式と新京成様式の2つのダイヤを併用しながら,都心直通時代が幕を開けた。1991年8月には,2期区間の路盤安定による運転速度向上でダイヤ修正が行われた。これが北総線にとって最初のダイヤ修正だったが,京成様式のNo.101ダイヤはNo.101-2ダイヤとなったのに対して,新京成様式のNo.7ダイヤは改正同様に繰り上がってNo.8ダイヤとなるなど,ダイヤ番号はベースとした事業者の付番法則によって左右され,自社内での整合性を欠いていた。

京成ダイヤの借用時代とその後

松戸直通運転の廃止によって,1992年7月改正から新京成様式のダイヤ制作が取りやめとなった。北総線のダイヤは京成様式に統一されたが,その一方で,利用者低迷による経費削減の波がダイヤ制作の現場にも押し寄せるようになり,京成様式のダイヤも制作を取りやめる事態となった。もとより,北総は自社線のダイヤを他社制作の様式に入れ込むかたちで印刷していたので,京成が刷ったダイヤを分けてもらうことで,自社での印刷費用を削減した格好だった。当然,社名やダイヤ番号は京成のそれとなったが,北総のダイヤ番号は仮想上で与えられていた。後に北総ダイヤが復活した際には,このときの番号を飛ばした続番が与えられた。

北総仕様のダイヤが復活したのは,1994年4月改正のことだった。このダイヤから土休日ダイヤが導入されたが,制作面ではコンピュータを用いたダイヤ作成卓の導入により,体裁に若干の変更が生じた。ダイヤ番号はNo.104となるところだったが,京成のダイヤ番号がそのまま印刷されてしまい,No.145と印刷されている。社名は正しく北総開発鉄道になっている。

それから今日に至るまで,北総に独自のダイヤ作成卓は導入されていない。現在でも北総のダイヤ制作は,京成本社にあるダイヤ作成卓を数時間ほど借り,その間に作業をしているという。もちろん,京成の作成卓で作業できる時間は有限なので,北総社内である程度形にしてから持っていくそうだ。しかも,いつでも京成の作成卓が使えるわけではないので,東日本大震災直後の混乱期におけるダイヤは手書きで作成したという話も残っている。

北総―他社ダイヤ番号対照表

北総線のダイヤ改訂では,ベースとなる京成ダイヤの「改正」と,北総ダイヤの「改正」判断が常に同じとは限らない。京成が「改正」としても,北総が「修正」とする改訂もあり,両者のダイヤ番号は,四則演算により簡易に変換できるものではない。古くには,北総が2種類のダイヤを併用していた時代や,公団線に独自のダイヤが設定されていた時代もある。このように,一つのダイヤに対して複数のダイヤ番号が存在するため,対照表を作成した次第である。

改正日北総(新京成式平日)北総(新京成式休日)北総(京成式)公団(平日)京成
1979/3/91(※1)――――
1981/11/1422――――
1984/3/1932――1
1985/11/3042――2
1988/2/553――3
1988/12/464――(北総に統合)
1991/3/19(101)143(※2)
1991/3/3175101143
1991/8/786101-2143-2
1992/4/1144
1992/7/8(統合→)(102)↓(※3)
1992/7/17144-2
1992/12/3144-3
1993/4/1(103)144-4
1994/4/1104(※4)145
1995/4/1105146
1996/7/20106147
1997/10/4106-2147-2
1998/11/18107148
1999/7/31107-2148-2
2000/7/22108149
2001/9/15109150
2002/10/12110151
2003/7/19110-2151-2
2004/10/30111152
2005/10/2111-2152-2
2006/12/10112153
2007/12/2112-2153-2
2009/2/14113153-3
2010/5/16114154
2010/7/17115155
2012/10/21116156
2013/10/26116-2156-2
2014/11/8116-3157
2015/12/5117157-2
2016/11/19117-2157-3
2017/10/28117-3158
2018/12/8117-4158-2
2019/10/26117-5159
2022/02/26118160
2022/11/26118-2161

北総用はNo.1から全ダイヤを確認済み。京成用は飛び飛びなので違うところがあるかもしれない(番号確認は京成時刻表巻末等で実施)。

※1:平休共通ダイヤ

※2:暫定ダイヤ。北総線直通列車は3月30日まで青砥等で折返し。31日から正式なNo.143で運行。

※3:この時点での京成はNo.144だが,北総線内はNo.144-2として運行(=No.102相当はNo.144-2)。

※4:正しくはNo.104だが実際はNo.145と印刷(上記参照)

※5:東日本大震災以降は暫定の震災ダイヤ(北総線内は震災ダイヤNo.1とNo.2)で運行。2011年9月以降京急線内改定で列番変更があったがダイヤはNo.115を引続き使用